今日のフクロウさん

コバヤシがほぼ毎日書くエッセイのようなもの

2017年4月1日(土)

 

・つながる

「つながる」というのは、

「つなげた」と「つながった」の二つの意味が一緒になった言葉だと思う。  

ある出会いは、偶然も、必然も、意志が最初だ。

「何かを成す」

というのは、「成そう」と思って、「成る」ようにもっていって、「成った」という巡りになった。

これらは全て同時進行で働いているのである。つまり同時に行なっているのだ。

「成そう」という思いは、「成る」ようにもっていけるくらい強いものでなければいけないし、そうであるから「成った」のである。

いくつも分岐点があるなかでそのような巡りは、「導いた」といってもいいし、「導かれた」といってもいい。

数あるやりたいと思っていることの中で、それが成るのは、また考えも与えられているということなのかもしれない。

今日も見てくださり、ありがとうございます。今日から新年度。

                                             小林 克
          

2017年4月2日(日)

 

・生活を豊かにすること

「豊か」とは?

解釈は色々あると思います。一般的な解釈は社会的な側面から見たものかな?

「富む」という言葉に置き換えられ、それは「お金」という言葉に置き換えられていくかと思います。

でも、そうなってくると、「価値」というものが揺らぎ、「豊か」になるというのは、相対評価の中で語られることになっていきます。

ひとのからだを、ずっと見ていると新しい「豊か」という解釈が見えてきます。

「豊か」というのは、心理的なイメージが強い言葉だと思いますが、これが豊かになっていくことがその本質ではないかと思うのです。

こころは社会とはつながっていません。

つながっているのはからだ。

だから、からだは一つの基準となります。

からだが豊かになっていくことは、どういったこころかというと、前向きで、明るくて、建設的なこころです。

ですから、例えば健康に良いと思えるものを食べていても、それが不健康への恐怖心から食べているのか、自分のからだへの、感謝から食べているのかでからだへの作用は如実に違うのです。

こころはそのような体験を通して、強化、学習されます。

ですから、生活を豊かにするというのは、
「自分を豊かにする」=「こころを豊かにする」=「前向きな体験をたくさん経験する」

ということだと思うのです。

今日もみてくださり、ありがとうございます。ですから、美術館に行くことも、家族とすごすことも、仕事をすることもこころのほんの少しの向きで、健康へ向かうことなっていきます。

                                             小林 克
          

2017年4月3日(月)

 

・こころとからだ

長年からだをみつづけて、考え続けて、

「こころとからだはつながっている。」

ということは、確信している。

だけど、そこからさらに思うのは、

自分の人生をより豊かにして、健康につなげていくのなら、

からだとこころを分けて解釈する方が都合がいいのではないかなあと感じる。

つながっているから、ややこしいところもあって、意識の上では、からだはからだ、こころはこころとして、分けて考え、分けてメンテナンスをすることが、自分の自己管理としては大事なのではないかと思う。

もともとからだは、両親から授かったもの。

授かっているもの、あずかっているものとして、扱う。

こころは、自分の武器。いつも明るく、楽しくいれるよう、嫌な感情にとらわれすぎず、しっかり掃除しておく。

こころとからたがリンクしすぎている時、からだにめぐる自然治癒力も働きにくい。

からだはからだとして扱えば、こころにひっぱられすぎることも少なくなる。

今日もみてくださり、ありがとうございます。でも、こころとからたがつながっていると思った上で分けて考えるのと、なにも思わず、なんとなく分けて考えるのとでは大きい違い。

                                             小林 克
          

2017年4月4日(火)

 

・心の臓について

心の臓器とはよく言ったもので、心臓は、人間の活力の象徴のようだ。

心臓がつながっているのは、動脈と静脈である。

動と静。

まるで、陽と陰。

放出と受容。

その構造を見つめるだけで、色々なものとの関連性が浮き彫りになってくる。

心が安心や温かさで満たされたぶんだけ、それを外へ表現できるように、

心臓もまた静脈の帰りが十分なぶんだけ、全身に血液を送り出すことができる。

動脈は自分の力で押し出していくことができるが、静脈はできない。

静脈はまわりとの関係が非常に重要。筋肉と、呼吸と、そして、動脈と。どこかでその力が止まれば、静脈は、押し流れにくくなり、鬱滞する。

からだが得た衝撃だけ、それに伴う、変化のぶんだけ、難しくなるといってもいいかもしれない。

僕たちのこころが、静かな時ほど、本質に近いように、静脈の流れはもしかしたら、自分自身の流れなのかもしれない。受け入れきれない出来事はこれまでどれほどあったか?

それが柔らかに押し流された時、血液はより多く帰っていき、呼吸は深くなり、動脈はその分多く流れる。よい循環、よいサイクルで生きれるようになっていく。

今日もみてくださり、ありがとうございます。言葉は何か意味があって、そうなづけられた気がしてならない。
                                             小林 克
          

2017年4月5日(水)

 

・分相応

分相応について考える。

可能性とは、無限である。

でも、その可能性に向かってできることは、今自分ができることだ。

自分ができることというのは、ぱっと思いついたことであったり、する必要があることだったり、仕事だったり、家事だったり。

可能性に向けて、今の自分にあったことが目の前にある。

可能性を逆算しても、到達しないことが多かった。

気持ちばかり焦るからだ。

分相応とはそういうことじゃないかなと思う。

目の前にあることが自分の道。その先にあるのは、無限の可能性。

急がない。目の前のことに嬉々して精一杯取り組む。

それが自分の力を一番純粋に、パワフルに使っている。

可能性はその繰り返しが、無限にする。

足るを知ると良いのは、目の前のことにまっすぐ取り組めるからだ。

自分を幸せにすることとは、そういうことではないかと思う。

分相応であることは、きっと世界に広く広まるコツなように感じている。なぜなら、それは何よりも優しい行為だからだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。本当の優しさは、本当の素直さの中に。

                                             小林 克
          

2017年4月6日(木)

 

・オステオパシーと医学

創始者であるスティルは、最初オステオパシーを教えることを拒んでいる。

オステオパシーは他人には教えることができないと思っていたためだ。

オステオパシーはこうしたらいいよというメソッドではない。

オステオパシー施術法というものはない。

解剖に基づいた、病態分析と、自然の法則に基づいた調整法がオステオパシーの根幹だ。

だから、スティルが教えれたのは、人の体をより良くみることだけだった。

解剖と、体の原理、しか教えなかったのは有名な話だ。

そして、オステオパシー医学と名をつけられると憤慨した。

オステオパシー医学なんてものはない。

オステオパシーと、医学だ、と。

病気とは、医学がつけたものである。病気の全ては、症状を分類しているにすぎない。

それそのものが治療法にはつながっていない。

オステオパシーは、医学と違う。人の治し方だ。

病的な状態を、病変としてみている。

今日も見てくださり、ありがとうございます。思考の過程が全然ちがうのです。

                                             小林 克
          

2017年4月7日(金)

 

・医療者は、職人になれるのか

長年、やるべきことをうまずたゆまず

やり続けた人は、何かものすごい力強さを感じるものだ。

そういう人は、職人と言われる。

医療者が職人と言われることは、あまりない。

なぜだろうか?

それは。やることが一定しないからだと思う。

スティルは、医療の世界の職人であろうとした。

人体を創造主のつくった、完璧な構造物とみなし、自分たちを整備士と呼んだ。

一世紀以上前の話である。

人体を一つの機械のように捉え、他人が人体に対して、するべきことをシンプルにした。

最初その考えに僕は違和感を覚えた時があったが、今はその功績の偉大さを理解できるところまで来たと思う。

世界を含めて、多くの人間がその真意と価値を知らない。

整備士として、生きること。

医療が権威者ではなく、ちゃんとした仕事になる時がきた。

医療がサービス業ではなくなる時がきた。

今日もみてくださり、ありがとうございます。オステオパシーは教えれないとスティルが主張した意味が、今改めて腑におちはじめている。

                                             小林 克
          

2017年4月8日(土)

 

・結局は自分次第だった

結局は自分次第なのだ。

まわりの環境も、人間関係も、自分自身のことも。

人は弱いから、どうしても弱さに流れてしまう。

その「弱さ」は長年勘違いをされてきた。

「なんだその軟弱な。」とか、「情けない」といった言葉に代表されるように、

昔から「弱さ」というのは、

「強い」ことをイメージできる誰かのようになれない事象のことを言われてきた。

それは、冷静さを欠いている人に「落ち着け!」と言うようなものだ。

「弱さ」とは、「心配」のことであり

「不安」のことであり、「自分の未来や、誰かの未来を信じることのできない心」のことだ。

人はついつい「破滅的な未来」を想像したくなってしまう。

それは、過去の経験から未来を予測してしまうから。

その計算通りにいくかどうかなんてわからないのに、自分のトラウマに引かれ「嫌な現実」の方を想像してしまう。

「不安」にかられ、「空気」が変わり、うまくいかなくなることも多い。

結局は、純粋に「自分自身」の問題なのだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。改善をはじめるのは、まず自分自身からしかない。

                                             小林 克
          

2017年4月9日(日)

 

・整備士

最近、スティルの本を読んでいて気づくのが、

オステオパスを整備士

として常に言っていたことの、深みだ。

彼は常にオステオパスは構造を整備する、整備士として、働くように努めていた。

人の体のことを、創造主が与えた完全な構造物をもった存在ととらえ、その構造物が完全な形であれば、その機能を十分に発揮していくことに気づいた。

その気づきを、徹底して、実践し、仕事も、心も向けていた。

人の体のさらに深いところを検討することができるやうになって、はじめて、彼が「あえて」整備士と称し、身体を、完全なる機械とみなしたことへの、深みが感じられる。

治療家は、神じゃない。そして、医療は宗教でもない。

人と、人が交流する中で、

十分に健康は生み出される。

健康は、人生の目的にはならない。だから、治療家は、神でも宗教家でなくても、いいのだ。

いつもみてくださり、ありがとうございます。やれることは、何なのか?医療者も考える時が来た。

                                             小林 克
          

2017年4月10日(月)

 

・いつもよりもゆっくりと

4月に入り、

僕の家の周りも桜の季節がやってきた。

暖かくなって、

みんな身体が動かしやすくなってくる。

身体もどんどん準備が進む。

寒くなりたての時よりも、

暖かくなりたての時の方が変化が難しいことは、あまり知られていない。

2月後半、3月くらいから僕たちの体は知らず、知らず調整しだす。

緊張状態からの緩和が難しいように

私たちの体も、この時期は一番乱れやすい。

本当は、先に乱れているから、症状としてでやすいというこなのだが。

そんな日々を越えての桜の季節。

一番華やぐ季節。日本とは、良いものだなと思う。

今日もみてくださり、ありがとうございます。体は一つ一つ準備している。一日くらい休んで、自分にご褒美をあげたって、いいんだよ。

                                             小林 克
          

2017年4月11日(火)

 

・はじまりをいつも考える

はじまりはいつも何もなかった。

偉大な研究も、オステオパシーもはじまりはゼロから人をみつめたことがはじまりだ。

初めてそれを行うひとは、  

誰から何を教わったわけでもない。

ただ今ある自然科学を勉強して、その中から自ら導いてきた。

主張と、教授の現代は、

そういったはじまりの姿勢は起こりにくい。

でも、思い返さなくてはいけないのは、

まだ病気はあるし、戦争もあるし、未来が決まってるわけでもない、ということ。

楽天的でいれるのは、最高の強みであるが、その底に深い不安を抱えていては、ただの強がりだ。

だから、考えることは、僕にとって大変意義深いものであった。

はじまりのつもりで物事を考えると、本当のところだけがはじめて浮き彫りになる。

僕たちは教授される過程で、様々なバイアスを間接的に受けるからだ。

はじまりは何もなかった。じゃあ何がたいせつだったのか?どんな感覚を得て、治ったと感じていたのか?人を治すには、どんなイメージを持っていたのか?

はじまりであり、終わりをつくろうとするものだけが、創始者と同じ感覚で感じれると思う。そういひとだけがその創始者の真意を知れる。

今日もみてくださり、ありがとうございます。はじまりのひとは、やはりすごいと思う。そして、何よりシンプルだ。きっとそれが真実。事実はいつだって単純で、その過程を省けば、いつだってシンプルなものに落ち着くはずだ。

                                             小林 克
          

2017年4月12日(水)

 

・家族に僕たちは支えられている。

家族に支えられている。

自分の考えも、自分の弱さも家族がいるから変えられる。

踏み出せない一歩も家族がいるから進めることができる。

子供の成長に支えられている。

子供の成長と、その成長に反映する僕の心の色に、僕自身が新たな自分へ進むことを支えられている。

妻の存在に支えられている。

同じ目線でいてくれる唯一だからこそ、前向きな力は、二人の間を交互に行き交い、大きくなる。

共に笑い、共に楽しみ、共に悲しみ、共に進んできた。

彼らの存在が、僕の成長を支えてくれている。

そして、僕自身のスタンスが家族を支えている。

自分も家族も仕事も、何一つないがしろにすることなく、過ごしていく。

今日もみてくださり、ありがとうございます。きっとみんな一緒。そばにいるのは、家族以外にいないから。
                                             小林 克
          

2017年4月13日(木)

 

・あきらめない心

あきらめない心は何から生まれているのだろうか?

執着だろうか?

自尊心だろうか?

僕は違うと思う。あきらめない心とは、責任と希望から来ていると思っている。

自分のためだけであきらめないことなんてできるだろうか?

みんなそうだと思う。

自分のためだけに生きているひとはいない。

あきらめることも、あきらめないことも自分のためだけで決断できることはない。

あきらめることも、あきらめないことも自分だけではなく、誰かのためでもあるのだ。

それは、役割を果たすためかもしれない。

それは、きっとこういう世界であるべきだ、いつかこういう世界がくるべきだという責任からかもしれない。

自分のことを大切にするのも、自分のためでやりきれるひとはなかなかいない。だれかに必要とされているから。

僕たちは、つながっている。必ずつながりの中で生を受け、つながりの中で成長し、つながりの中で生活している。

その希望へ向かう心。問題を吹き飛ばす明るい心が問題を揺り動かす。

今日もみてくださり、ありがとうございます。明るいということは、すごいことだ。

                                             小林 克
          

2017年4月14日(金)

 

・単純なことを繰り返すこと

脳卒中のリハビリは、多くの誤解がある。

動作の分析が難しいし、本人自身も自己の体がわからなくなっていることもあって、明確な指針の中でリハビリを行うことは、むしろ珍しいと言ってもいいかもしれない。

熟練したリハビリのセラピストでなければ、その残存能力を正確に判断することは難しいし、熟練するためには、これまでにあった既成概念をとっぱらって、本当の脳卒中になった方の体と向き合い続けることが必要だ。

長くそういった方をみてきて、また急性期、回復期、在宅、外来と全てのステージを見てきて思うのは、

どれだけ、正確にやり続けたかが可能性を広げるということだ。

在宅に戻ってからが難しい。誰かの管理を離れて、自分だけになってからが勝負になることを、病院から離れて改めて実感した。

脳卒中のリハビリで本人も含め、難しいのは、無理しすぎてもダメだし、無理しなさすぎてもダメという、ちょうど良いチャレンジをしていけるかにある。

まずは自分がわかると思うこと、あるいは想像できることを繰り返すことだ。そして体に馴染んできたら、少しずつ動きを広げていけばいい。繰り返すことは、精神論でもなんでもなく、正しい動作を繰り返すことで、新しく動き方を構築していくのだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。自分を信じ、自分の感覚を信じ、建設的に積み上げること。だんだん変わっていく。

                                             小林 克
          

2017年4月15日(土)

 

・スティルかく語りき

スティルはこう語っている。

「正常な免疫も正常な機能もまず正常な構造が必要だ」

病気の背景に必ず体の構造の問題がはらんでいる。

例えば、5〜9番の肋骨が位置がおかしければどうなるだろう?

肋骨の前にある交感神経幹からでた神経は血管とともに、脾臓や胃など消化管な枝をだす。

神経というのも、膜に包まれある一定の位置を維持している。肋骨の位置が変われば、神経にもなんらかの緊張がかかるのは、十分考えられる。

神経の電気信号というのは、イオンの行き交いによる電気信号だ。神経そのものは、鉄とか銅のような硬いものではない。圧力が神経のイオンの行き交いを邪魔することも考えられるのではないか?

そうなってくると、例えば脾臓に血流が通常よりも行きにくいということも、考えられる。

そうなるとどうだろう。脾臓は、免疫における学習を行うところだ。脾臓そのものの働きが落ち、学習に影響が出る可能性も考えられるだろう。

抗原はあるのに、血流量が減れば、反応として、その抗原を叩かないと体が危ないなどと、考え多量の抗体をつくりだしてしまうかもしれない。

それに環境的な要因も不可してくればなおさら、そのうちその反応は蓄積され続けるかもしれない。

花粉症を、はじめアレルギーの根幹にこのような要因もあるとは考えられないだろうか?

僕たちが何か機械を組み立てようとする時、まずその構造を理解することがスタートだ。

オステオパシーはそういったところから端を発している。

西洋医学は、大きい構造の変化は探求してきた。しかし、もう少し細かくみることもできたはずなのだ。

だから、オステオパシーは存在しているのだろう。

今日もみてくださり、ありがとうございます。この発想で、まず考えれるだけ考えてみる。そして、それでも解決できないのなら、大きい構造の変化を考える。医療の基本的スタンスはやはりこちらではないだろうか?
                                             小林 克
          

2017年4月16日(日)

 

・にぎやか

子育て期間中、多くの家庭が家の中がにぎやかなことだろうと思う。

子供の笑い声

話し声

泣く声

僕たちの話す声

笑う声

怒る声

大人も子供も互いに悩みながら、人生のある時期をともに過ごす。

でも、それも長くて20年程度。

子供が子供だけの社会で過ごしだすことも考えたら、小学校前くらい…6歳だ。

6年。

2190日。

たった、それだけの時間なのだ。

僕が父親として、存在を肌になじませ、朝から晩までにぎやかで、休む間もない。そんなにぎやかな時間もたったそれだけで終わる。

そう思うと、どんな状況も、寝不足だろうと、疲れていようと、どんなだろうと、父親として、ともに入れるときを全力で生きないと、僕が後悔してしまいそうだ。

1/2190日。

この幸せをかみしめよう。

今日もみてくださり、ありがとうございます。世間一般の常識のように思われる、当たり前のことは、当たり前ではない。一つ一つが有り、難い。

                                             小林 克
          

2017年4月17日(月)

 

・気にしないこと。

「気にしない」ことは、勇気のある行為だ。

「気にしない」ことは、一番優しい行為だ。

気にしない。

だれの感情にもひかれず、日々の出来事にもひっぱられず、理由は何もない、でも、自分たちは大丈夫、きっとなんとかなる、なるようになる。さあ、気にせず、やらなあかんことしよ。

「気にしない」という行為はそんな行為だ。

だれも未来はわからない。

「大丈夫だよ。」という時、明確な理由はない。

ただ、あなたの未来を信じる。あなたとわたしの未来を信じる。

理由なく、そう思っているだけ。

心配しないのは、そう信じようとするからだ。

いろんな事例が聞けるようになった。

いろんな事例を見れるようになった。

心配ごとはやまのように増えた。

心配しようと思ったら、いくらでもできる世の中だ。

だからこそ、より強く自分たちの未来を信じよう。

気に、しない。

今日もみてくださり、ありがとうございます。心の強さは、本当の強さ。

                                             小林 克
          

2017年4月18日(火)

 

・もしも、この世界を自分がつくるのなら。

もし、病気が高度な薬がなければ、治らないものなんだとしたら、今より昔は、世界は必ず病気に苦しめられるしかない世界であったということになる。

高度な科学技術がなければ、人は健康に幸福に生きられないのなら、この世界は不幸な世界ということになるのか?

もし、僕がこの世界を作るのなら、きっとそういうふうには、作らなかったんじゃないかと思う。

どの時代でも、化学や科学が発展しなくても、人は今あるもので、健康に幸福に生きれる世界にすると思う。

 もしも、この世界か健康に幸福に生きることを望まれている世界なのなら、それは、きっと、体の構造を熟知した人間なら、健康を十分に補佐できる世界だ。

本当に必要な知識とは、見て理解できるものだけではないか?

つまり、解剖だけなのではないか?

そうでなければ、昔はいつまでたっても、皆が健康に生きる可能性のない、健康であることが望まれない世界になってしまう。

そんな世界好んで作るはずがない。

オステオパシーは、そんな願いを担うために作られた。

「人の体には、健康に幸福に生きることができる全ての物質が備わっている。神がそんなヘマするわけないだろう?」

人が知らず、知らずかけ違ってきたボタンを少しずつ丁寧にかけ直していく。

今日も見てくださり、ありがとうございます。きっと、単純でいいはずだ。
                                             小林 克
          

2017年4月19日(水)

 

・1/36500

終わりに向かって歩いている。

全ての人が、終わりに向かって歩いている。

どんな人も同じだ。医師も、政治家も、教師も、パイロットも、サラリーマンも、経営者も、フリーターも、

みんな向かっていくのは、終わりに向かってだ。

1/36500。

今日1日は、そんな日々の1ページ。

残る時間は、どんなに多く見積もっても、数えれないほどの値ではない。

100歳まで生きるとしたって、36500日だ。

どんな1日も、全力を尽くさなくてはもったいない。

どんな1日も、明るく、楽しく、過ごさなくてはもったいない。

そう思うのなら、明るい未来を想像しよう。これから来る1/36500の日々は、きっと明るい。

今日も見てくださり、ありがとうございます。今日は、36500分の何日目だろう?きっと明るい。
                                             小林 克
          

2017年4月20日(木)

 

・切りかえる。

僕たちは、過去の経験からものごと、できごとを評価する。

そうやって、意図して、同じような結果を、結局望んでしまい、実現してしまっているところがある。

意図しない結果がでてきた時、そんな時こそ、自分の過去から作り出したら、安直な思考回路をもっと、大きく更新するチャンスかもしれない。

脳の使い方なのだ。ようは。

イレギュラーで起こった時、本当に1分の何かしそんじとか、ちょっとの躊躇とか、そんなものでタイミングが合わないということもある。

予想もしないことが起こったりとかだって、あるだろう。

普通は悲観する。

でも、そこで次に行ってみよう。時間ができたと、やれなかったことをやって見てもいい。

思考はプロセスを変える。

自分の意思が結果を作らなくなる。

出来事は、これまでと同じようには運ばない。ものごとは、一見失敗のように見えるものも、逆にそれが親近感を作ることになったり、印象になったり、これからの自分にとっては、プラスな働いたということはよくあることだ。

切りかえる。ことは、自分を信じる行為でもある。

きっと大丈夫。

今日も見てくださり、ありがとうございます。
これも、36500分の1日のひとつ。人間の人生は数えれるくらいしかない。楽しんでいこう。

                                             小林 克
          

2017年4月21日(金)

 

・健全な発散

言いたいことを感情的に相手に言うのは、

実は発散にならない。

怒りは、防衛本能がおこす、「肉を削って骨を断つ」方法だ。

どうにか自分の中の何かを、大切なものを守るため、自分の肉を切らせてでも、相手の骨を断つ、そんな、感情の諸刃の剣を怒りという。

だから、怒りを頻発させることは、自分だけ、どんどん削られるようなものだ。

相手がいないのに怒ってることもあるかもしれない。そんな時、日本にはいい言葉がある。「水に流そう。」

このメカニズムを正常に機能させるには、何が自分にとって、大切なものなのか?を再認識することだ。

自分の日常にとって、何が大切なのだろう?

人生にあまりたくさんの荷物は必要ない。少しずつ、そんな風に自分のこれまでを整理していければ、気付いた時には、少し軽くなっている。

怒っていたことは、なんだそんなことだったのかときっと思うだろう。

健全な発散とはなんだろうか?

物理学や健康科学などを捉えて、考える限りは、この二つになる。

奉仕することか、休むこと。

今日も見てくださり、ありがとうございます。何かイラついたら、寝てしまえ。それか、落ちてるゴミでも拾おう。

                                             小林 克
          

2017年4月22日(土)

 

・一番知らないのは、自分かもしれない。

僕たちの自己評価とは、どこから来ているのだろうか?

まわりから言われた評価か?

親から言われて来た評価だろうか?

あるいは、チャレンジして、失敗した経験だろうか?

………。

違う。

自己評価とは、自分が自分にくだした評価だ。

自分の経験から、

まわりに言われたことから、

社会に示されたものから、

自分がそうだとつくった枠組みのことである。

自分のまわりとの差し引きから、うまく生きるために、つくった枠組みだ。

もしかしたら、自分が思っているほど他人は思ってないかもしれない。

自分は損なっていると思っているのは、自分だけで、まわりはそうは思ってないことはたくさんある。

そもそも、評価は必要ない。

自分を評価する必要なんてない。

やれるだけやる。これに評価は関係ない。出来事があるだけだ。

自分を知るとは、そんな自分がつくった思い込みを知ること。

今日もみてくださり、ありがとうございます。
明るい未来を想像する。それが、その未来を歩む最初の一歩。繰り返すことが大切だ。

                                             小林 克
          

2017年4月23日(日)

 

・解剖を学ぶこと

多くの施術の仕方がでまわるようになった。

オステオパシーは自由度のある手技だと思われているところがある。

スティルは、手技そのものを残さなかったからだ。

それもあって、その後、多くの方法論が世の中に発表されることになる。

それを時代が進んだからか?科学が進んだからか?

発展ととる人が多いようだ。

僕は、そうは思わない。

なぜなら、誰もスティルと同じだけの臨床結果、幅広い疾患を解決しているわけではないからだ。

方法を作るのは簡単である。

自分のやることをメソッド化するだけだ。

そうやって、スティルの考えたものと、随分かけ離れたものとなってきたのではないかと思う。

欧米の人間に習えば、オステオパシーだろうか?

違うと思っている。

スティルの思いに、思いを重ね、しかるべき態度とは何か?

解剖を学ぶことだと思う。

今日もみてくださり、ありがとうございます。この意味がわかるには、何周もまわるしかない。でも帰ってこれるのは、本当に純粋に取り組んでる人だけだと思う。

                                             小林 克
          

2017年4月24日(月)

 

・偉大な人

歴史を変えるような偉大な人を学校の授業では習ってきた。

その時代が根本から進むような発明、偉業がこれまで成され、間違いなくいまの時代の礎となってきた。

産業革命、エネルギー革命を経て、今はどこにでも行けるし、色んな可能性に満ち溢れた時代だ。

今から歴史上の偉人となろうとする人は大変だろう。

子供の時、そんな偉人はすごいなぁと思っていた。

大人になって、偉人と言われるのは、世に偉人と言われている人たちだけではないことに気づいた。

まわりを元気付けている人。

自分を変えようとしている人。

家族を支えようとしている人。

みんなが偉大であることに気づく。

自分を変えようとすることは、代々からの流れを変えようとする人だ。

自分の幸せと、家族の幸せのため、色んなことがあるだろうが、明るく、前向きに生きる人は、まわりを救うひとだ。

本当に偉大とは、こういうことをいうのじゃないか?

大人になってからそう思うようになった。

意識の時代がくる。

自分たちがどんな心でいるかが重要視される時代がきている。

そんな時代において、偉大な主役は、生きる人みんなだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。日々をただ生きない。1日1日が昨日より、幸せに生きるヒントがある。

                                             小林 克
          

2017年4月25日(火)

 

・意識の時代

オステオパシーは、本質的にはマインドの科学である。

自分の意識や意図をどう使うかということが、人を触れて施術するということでは、肝心なところになってくる。

多くの場合、

集中し続けることができない。

イメージし続けることができない。

これが、良い施術者と、下手な施術者の違いだ。

マインドの科学なんて言うと、なにかスピリチュアルなことをイメージしてしまうかもしれない。

オステオパシーにおいては、本質的にはそれも一部であると認識しているが、重要なのは、スピリチュアル的なものも、「一部」でしか、ない。ということだ。

スピリチュアルに取り組む人は、イメージがどんどん目に見えない世界にいってしまう。

神への憧れか?具体性から離れていってしまう。

そうなると結局集中してないのだ。

自分の集中とイメージに手が合わさるからうまくいく。

オステオパシーは、全てを統括した、行為であり、最も古く、最新の方法と思う。

今日も見てくださり、ありがとうございます。触診を極めたのが、オステオパシー。触診が最も大切。でも、スティルは誰に教わったわけでもないんです。施術者はこの意味を理解しないといけない。
                                             小林 克
          

2017年4月26日(水)

 

・オステオ、パソス

オステオパシーは、A・Tスティルという医師が作ったものだ。

スティルは、自分に与えられた身体の捉え方、治療哲学を「オステオパシー」と名付けた。

「骨」を意味する「オステオ」と、「病気」を意味する「パソス」をくっつけ、「オステオパシー」と名付けた。

直訳すれば、「骨の病気」となるだろうか?

この重要性、真意に言及することは、あまり聞いたことがない。

なぜ、スティルがあえて、「オステオパシー」と名付けたのか?

その背景に何があったのかを、真剣に考える人はおそらく少ないのではないだろうか?

その本当の意味は、彼が言っていることだけをただ聞いていてはわからない。

根本から自分で考え、考え、考え続けた人間でなければ、全人類の幸福と、健康に人生を捧げたスティルがなんで、「オステオパシー」と名付けたのかはわからないだろう。

「オステオ」、「パソス」なのだ。

これに尽きる。

医療というのが、本来どうあるのが望ましいか考えよう。

何が幸福で、世界はどうあったらいいかを考えよう。

それが医療人だと思う。

その先に、答えは待っている。

今日もみてくださり、ありがとうございます。その意味を知った時、スティルは、与えられたのだと思った。
                                             小林 克
          

2017年4月27日(木)

 

・変わること

どうしたら世界は平和になるのだろう?

どうしたら戦争はなくなるのだろう?

どうしたら病気はなくなるのだろう?

どうしたら一人残らずみんな幸せになれるのだろう?

そんなことを一人真剣に考えた青春時代。僕は少し変な青年だったのだろう。

真剣に考えてみると、例えば政治家になって、総理大臣になるとか、国連で働いて、事務総長になるとか、そういうことも素晴らしいことかもしれないけど、その程度で何かが変わるとはとても思えなかった。

もし、世界から戦争がなくなるのなら、もし、世界から病気がなくなるのなら、もし一人残らず幸せになるのなら、そんな世界はどんな世界か?

そんなことを想像したとき、それは、システムとかではなく、個々人が変わっている世界な気がした。

だれかが、変わるから、また違う誰かも、変わる。そうやって、自然波及的に人のトラウマは脱皮をとげ、よりよくなっていく。

もし、世界が幸福になるためにあるのだとしたら、それはもっと単純なことなのではないか?

そんなことを信じる。

今日もみてくださり、ありがとうございます。どうせみるなら、そんな世界がいい。

                                             小林 克
          

2017年4月28日(金)

 

・自分は一人ではない。

もし、自分は変なのかとおもってる人がいるのだとしたら、心配しなくていい。

そんな自分も君だというだけ。

自分にある面は、一つじゃない。

360度。完全3Dで自分の体は見えるように、自分の人間性だって、たった一つの面だけでできているわけではない。

自分を完全に絵にはかけない。

もし、自分はダメなやつだと思っているのなら、心配することはない。

そんな面も、君にはある。ただ、それだけだ。

自分のことを自分が気にいる面だけで、生きている人は少ないだろう。

自分の好きなところも、嫌いなところも、当然ある。

自分が歳をとるにつれて、昔は嫌いだったところも受け入れれるようになったり、その配分だって、全然均一なんかじゃない。

人間は多面的だ。

だから、僕は体を治そうと思った。

人間は多面的でいい。

だから、僕は体を診る。

体をサポートしようと思うのだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。いろんな時期がある。遠くからみたら、それも一部。

                                             小林 克
          

2017年4月29日(土)

 

・預かりもの

自分のものだ。と胸を張って言えるものって、ほとんどない。

自分の体だって、両親が与えてくれたものだ。

自分の心さえ、自分のものとは言えないかもしれない。

色んな関係の中で、バランスをとって人は生きている。心でさえ自分の思い通りにならないのも、納得だ。

そう思うと、人生ってなんなのか?って思うけど、それもまた違う。

人生もバランスの中で生きている。思い通りにいくわけじゃない。

だけど、一つだけ自分のものだと言えるものがある。

それは、「選択」だ。

人間関係の中とか、社会の中とか、役割の中で、否応なしに選択肢はしぼられていくのかもしれない。でも、最後にどっちかを選択するのは、自分だ。バランスをとってたって、最後の最後の決断は、いつだって自分自身。流れに逆らう選択もあるだろうし、流れに乗る選択もあると思う。いやいや、仕方がなかったんだという選択もあるかもしれない。でも、その選択は、自分のもの、とするかしないかで、人生そのものは変わっていく。

「選択」を自分のもの、としなければ、自分の人生は、すべて他人のものだ。社会のもの、不特定多数のだれかのもの。責任のもの。思い込みのもの。

逆に、「選択」を自分のもの、とすれば、自分の人生は、すべて自分のものになる。だれと出会うのも選択、どのように生きるのも選択、良くも悪くも、自分の今の状態のすべてが選択になる。

どっちも、正しいし、どっちもつらいし、どっちも楽しいと思う。

でも、やっぱり自分は、ないと寂しいよね。

だからこういうことだと思う。

自分が選択して、この人生を与えてもらった。与えられた人生を自分の選択で生きる。すべて借り物。どれを借りるか、どう借りるかは、自分の選択。それが自分の人生であり、みんなの人生だ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。今も、今日の一瞬、一瞬も選択で埋められている。何か振り返ってる間ない。

                                             小林 克
          

2017年4月30日(日)

 

・教えること

色んなご縁があって、指導するという場に立たせてもらっている。

自分がまだ何か大業をなしたわけではない。

ただ、少しだけ先にオステオパシーを学ばさせてもらい、色々なご縁をいただき、そのご縁をさらに広くつなげていくためにその場に立たせていただいていると思っている。

教えることは、非常に難しいことだった。

最初に壇上に立たせてもらったのは、20代のころだ。分不相応と言われれば、それまでだが、自分の本来からある考えにこういうものがある。

「何かをするのに、年齢は、理由にならない。」

学生の時から思っていたことがある。

「学生だろうと、担当を持ったのなら、その人を治せるのは、自分だけだ。」

分不相応かどうかは、結果が決めること。

時間はもちろん大事な要素だが、それは言い訳でしかない。

その考えには、教えることも含まれた。

分不相応な人間がその差を埋めるためにし続けたことは、ひたすら考え続けることだった。

根本から考える。

一回自分の考えも、教わった考えも捨てて、理屈と度重なる実践だけで、一から自分で考えることに取り組んだ。

そうやって、やり続けて、初めて先人たちの偉大さに気づく。やっぱすげえなぁ。

でも、その凄さに気づいているのは、そんなに多くないことに気づいた。

気づいてみると、僕にしか話せない言葉ができていた。

今日も、教えることにチャレンジしている。それは、自分の言葉だ。

教えるということも、どういうことか自分で導き出す。その一つ、一つの想いが自分の質につながっているのだと思う。

質は終わりなく上げれるはずだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。それぞれが、それぞれの道で積み立てている。ともにチャレンジしている。そのエネルギーが、きっと、大きなうねりを作る。きっと。本当にお疲れ様でした。

                                             小林 克