今日のフクロウさん

コバヤシがほぼ毎日書くエッセイのようなもの

2017年3月1日(水)

 

・born this way

流行は遅れてやってくる。

僕の中では(笑)

レディ・ガガの代表曲の一つを知ったのは随分前のことだが、

その当時全く興味を持ってなかった僕は

ボーンディスウェイのボーンを特に意味も考えず、骨となんとなく思っていた。

ひょんなことから改めてこの曲を知ると、そうか骨じゃないよね。そりゃ、そうだよね…。

「この道に生まれた。」

というメッセージは、今になって、印象強く僕の中に残った。

この人生は、自分にしか歩めない。

この道しかない。

この痛みも、苦しさも

自分にしか味わえない。

自分には、自分なりの良さがある。

この道は正しいんだ。

他の道なんてない。

他の道なんてない。

自分を受け入れて、愛してあげよう。

自分を信じ、この道を進もう。

そうだ。この道しかない。この道をまっすぐに進もう。

今日もみてくださり、ありがとうございます。さぁ、今日を楽しもう。

                                              小林 克
          

2017年3月2日(木)

 

・勝って兜の緒を締める

この言葉は、勝敗に関わらずだなぁと思う。

何か仕事が大変だったとき。

必死こいて仕事をこなすのに、それが終わったとたん、安堵してやらなくなるから、次の年また苦しくなる。 

そんなことは、多々ある。

例えば、時期で言えば確定申告…

今、後悔している人は多くいると思う…

なんでもそうだ。苦しい時は変わりどき。

その時だけと思ってやるから、続かない。そして、また変わらない。

体の動作もそうだけど、習慣というものを作るには、リズムと意志が必要。

ただやるのではなく、どう建設的な気持ちで取り組めるかが大きなポイントだとつくづく気づかされる。

自分の中のマインドセットは大事だが、走り出した時に、その波に乗せるには意志以外ない。

それを補助してくれるのがリズムだ。同じようにやってるテンポというか、テンションというか、感覚的なその感じを保っていれるか。

人生の中でそんな時はきっと何回もあるだろうけど、その時、その前後をどう取り組むかが大切だ。

今をチャンスに生きよう。

今日も見てくださり、ありがとうございます。きっとよくなる。
                                              小林 克
          

2017年3月3日(金)

 

・話し合っても仕方がなかったり

話し合うということは、大切なことだ。

多く見られるのは、自分だけが思っていて、きっとそれを相手もわかっていると思って、行き違いになったりしてること。

実は、少しのコミュニケーションで解決するはずだったのに、そのコミュニケーションに至るには、随分自分の障壁が多かったなんてこともある。

実際の作業と、その困難性は関係がない。

少しのコミュニケーションの間に、相手への理解であったり、自分への理解であったり、かなり距離があることだってある。

逆に、世に腹を割って話すとか、本音を言うとかあるが、話し合うことそのもので、うまくいかなくなることもある。全てを互いに知り合う必要は全くなかったりもする。

だいたいそんな時は、自分が変わるといいものだ。相手への理解とか、自分への理解とか、決意を持って自分の中の何かを解決しようとするとき、コミュニケーションなど関係がないことは多い。というより、非言語コミュニケーションが随分と発揮されて、自然と良くなっている。

話し合うことも、話合わずみつめることも、この二つはきっと同時進行なのだろう。両方含めてコミュニケーションなのだ。

インフォームドコンセントなどでも同じことは言えると思う。医療者の不安が余計な一言へと繋がることが多い。まだ、起こったこともない、見たこともないのに、聞いたことがあるというだけで、恐れ、戸惑わせることは、医療という世界には多くある。

僕たちは、常に自分と向き合う必要がある。人の生活に関して、考え、チャレンジする必要がある。自分が変わることで、変わるものは本当に多い。

今日もみてくださり、ありがとうございます。まず、今日一日チャレンジする。

                                              小林 克
          

2017年3月4日(土)

 

・怖さは自分

何かわからないという恐怖心は、自分の本質をあらわしていると感じることがある。

わからない時に感じるものは、自分の根底にある不安だ。

みんな同じようにその不安は持っているけど、少しずつ抵抗感を示すものは違っている。

そういうものは、大抵、自分の安心の喪失の根拠になっていることが多い。

人によっては、それは健康かもしれないし、人によってはお金かもしれない。

そういう場合、

その何かは、自分がこの人生を通して解決していきたい、解決を望む、解決すべき何かになる。

その解決は、まず第1にその不安を乗り越えることからはじまる。

根拠を持つから乗り越えるのではなく、たぶん大丈夫だと先に思えるかがポイントだ。手放すだけ。しがみついている自分を。しがみついている記憶を。

手放すと決めるだけ。

手放しきるには、ことあるごとにくりかえすことになるけど、見えないところに見える不安は、見えないものに任せてしまうのが、本当のところなんだと思う。

今日もみてくださり、ありがとうございます。そして、目をつむって休む。目を開ける頃には、次のステップへのギアをあげる準備はできている。

                                              小林 克
          

2017年3月5日(日)

 

・春めいて

今日は特に暖かい。

春を感じたなと思ってからは、特に意識していることがある。

少し服を薄着にすることだ。

気温の変化や、春めいた感覚を自分の体がちゃんと感じるように下半身は暖かく、これまでと変わらないが、上半身はこれまでよりも薄着にする。

今日ははじめてスプリングコートを着た。

あまり科学の世界では言われてないが、神経系とは一つのパターンで動く。

そして、感じることで少しずつそのパターンを次のパターン、あるいは新しいパターンへと進めていく。

本来リハビリテーションではこういったことが考えられ、動作が変わっていく。

これは、その他いろいろなことでもあてはまる。
思考のパターンもその一つ。

で、僕はこれにも季節の変化、つまり自律神経の機微な対応も関係していると考えている。

冬用の体から春用の体に落ち着いていくのである。

現代の生活習慣は極めてこれがうまくいっていないと感じている。

一定の気温、一定の睡眠時間(のつもりがけっこう寝てるのだ)、一定のワークスタイル。を保つことが一つの役目。でも、身体は季節に応じて様々に対応してくれている。そのゆらぎを意識的に沿うことで、逆に一定のパフォーマンスをえれると考えている。

だから、感じることは非常に大切だ。

春の季節を感じれるよう薄着にすること。食べ物も春のものを楽しんで食べること。

切り替えがうまくいってないとき、脳はたくさんの情報処理に疲れ、眠くなる。春は眠くなりやすいのは、このためだと考えている。

いつもよりも意識的に少し活動的に動く。

実は、これは、生活習慣からの花粉症対策なのだ。

今日も見てくださり、ありがとうございます。さぁ、春だ。古いパターンを変えていこう。なりたい自分になるのは、今だ。
                                              小林 克
          

2017年3月6日(月)

 

・目の前のことに。

目の前にあること、今やることを求められていることには、何か意味がある気がしている。

色々気持ちの上では逃げたりできるが、結局やるしかないってことあるもんだ。

今する予定になっていることは、今するために自分のところに来てくれていると思うと、それをさっとやってしまうことが、結局あとで大切なことだったとわかる。

人生の中では、全然関係のなかった経験が、まるでこのためにやっていたのかと、点と点が線でつながるようなときがある。注意深く偉人の話を聞いて見てもそのような体験は本当に多く聞かれるものだ。

しかし、まさにその点、真っ最中のさなかは、偉人も色々に苦しかっただろうと想像する。それが繋がることは当然その時点ではわからなかっただろうし、見えない未来に不安も感じていただろう。

でも、よくよく、注意深く聞いているとそうやって、点と点が繋がっている人にはある特徴があることに気づいた。

それは、その点真っ最中のさなかでも、それほど辛そうに過ごしていないということだ。わりに明るくそれに取り組んでいる。

今目の前にあることもまさしくそうなのだろう。明るく、楽しく、できるならそうやって前向きに取り組むことが、後々その経験がより身を肥やし、新しい何かに繋がっていくコツなのかもしれない。

今日も見てくださり、ありがとうございます。そんなことをぼんやりと考えた。
                                              小林 克
          

2017年3月7日(火)

 

・急がない

「急ぐな

先のことを心配するな

自然にまかせて処置をとれ

これで良い

喜べ  。」

ある人の最後の言葉だ。

その人の生涯は、人のために尽くした生涯だった。

焦る気持ちが自分を留めていることは多い。

何かを急いでやっても、うまくいかなかったり、うまくいっても、途中で止まったりすることもある。

この人は、最後の最後まで自然であろうとした。人にとって自然な状態とはどんなことか考えていた。そして、実践していたんだと思う。

今出会っているもの、今取り組んでいることは、遠回りに思えるかもしれない。

でも、あとあと考えていたら繋がっていたということは、きっとある話だ。

乗り越えれるから、課題は来るんだよ。

とある人は言う。

もしかしたら、それが最短なのかもしれない。自分の歩む道の。

でも、人はなかなかうまくはいかない。バランスを崩しながらも、進んでいる。

オステオパシーはそんな人生をフォローするものでありたい。

医療に大きな目線を、当たり前にもって取り組めるように、オステオパシーの哲理を伝えていきたいと思う。

今日も見てくださり、ありがとうございます。技術じゃない、方法じゃない。一番大切なのは、あり方。
                                              小林 克
          

2017年3月8日(水)

 

・膨らむお腹

子供が宿ると、お母さんの体はその瞬間から子供を育み、産むための体に変わっていく。

体はどんどんゆるみ、特に骨盤の靭帯は日増しに緩んでいく。

安定期を超え、どんどん大きくなる赤ちゃん

それとともに膨らむお腹。

子宮が大きくなっていくのだから、当然そのまわりの臓器は圧迫されたり、位置が寄せられて変わっていく。

つわりでもないのに、吐き気を感じるお母さんもいると思う。

やがて、臨月を超え、赤ちゃんは頭をお母さんの骨盤に沈めていく。それとともにお母さんのお腹は、下がり、骨盤はより広がっていく。

不思議だよね。

赤ちゃんが自ら下がっていくのだろうか?お母さんの体が変化するから下がっていくのだろうか?

僕は前者だと思っているけど、赤ちゃんがどうにか動いて下がっていくのではなく、

たぶん決まっているんだと思う。

赤ちゃんを包む膜が、生まれる時期もすべてを知っている。

その時期に向けて、膜が調整していくんじゃないかな。

それは、膜という組織が大きな力を乗せているから。

大きな波に乗った船のように、赤ちゃんを僕たちのところへ届けてくれる。

その時を僕たちは、ただ待っている。

穏に。

今日も見てくださり、ありがとうございます。この時間は大切だよね。胸にきざもう。

                                              小林 克
          

2017年3月9日(木)

 

・15年間

15年前のある日、ある一つのことを決めて、それを目標にして、どうすれば到達できるのかをずっと考えてきた。

一度考え出すととめられない性格だ。

ずっと考えていた。

色々な本を読んで、

人に会って、

そのヒントを探した。

チャレンジして、失敗したことも多々。

そして、考えて、考えて、考えて。

もうすぐ15年になろうかという、ある日。

考えないですむところまで来たと思った。さあ、やるだけだ。

そして、気づいた。

やる方が難しい。

考えることに快感でも感じていたのかもしれない。

一つの旅が終わり、すぐに次の旅がやってきた。

これからが本当の旅路だ。

これからは毎日の一分一秒が勝負だ。

僕の施術は、患者さんに向かう30分の時間以外にすでに決まっている。

そこをどう生きるか。

自分にしか生きれない道がある。

その道をどう生きるか。

今日も見てくださり、ありがとうございます。昨日3時に起きて、なんだかんだで今日3時に寝ている。期せずこれも徹夜になるのか?実りある1日だった。

                                              小林 克
          

2017年3月10日(金)

 

・エネルギーフィールドという話

エネルギーフィールドというものを取り扱ったセミナーが増えてきた気がする。

日本の施術業界にも、昔からあるものではあるが、やや怪しいというイメージがあったと思う。

最近の一つの流行りは、

海外で発展し、わかりやすく具体的なものと組み合わせた形で表現されるものだ。

施術家はある時期、そういうのが大好きになることがある。

僕がもし、アドバイスするのなら、

さらに突き詰めて考え続けること。

そういうものも取り入れるのは、個々、施術家にとっては、大切で、有意義なことでもある。

ただそれもまだ一部であるということ。

もし、考えるのなら、聞いた話、学んだ話を一度全部切り離して、自分が直感的に絶対だと思える知識を駆使して、もう一度見つめ直すこと。理論を一から考えること。

それはすごく難しいことだけど、それをあきらめずにやり続けること。

複雑で、見えない世界を扱う時、

僕たちが注意しなければいけないのは、それを含有した現実をどれほど、考察できるかということ。そうしなければ、具体性を失うからだ。

本当は単純なところにおちつく。

本当に大切なのは、本当に単純で、当たり前で、だれでもできることだ。

すごく危険なのは、そういう見えない世界を一定の系統にしたがって、伝えてくれるため、何か優位性を感じてしまうことだ。

そうなってしまったら、治療者自身は気持ちが落ち着くかもしれないけど、患者さんは落ち着かないよ。

今日も見てくださり、ありがとうございます。さぁ、今日1日を楽しく、生き生き過ごそう。

                                              小林 克
          

2017年3月11日(土)

 

・準備

イチローの試合への準備はすごい。

という内容の記事がよく目につく。

その通り、イチローの競技にたいする準備は、競技者のお手本であるだろうし、理論、実践においても参考にする必要あるところが多くある。

しかし、本当の準備とは、競技に対してだけのことではない、と思う。

まず、人として僕たちはある。

そして、その上で競技者であったり、職人としてであったり、事業者であったりと肩書きがつく。

それらの準備もさることながら、やはり一番大切なのはどう生活の中で生きているかということだと思う。

特に大切なのは、どんな気持ちているかということ。

充実しているか?

不安はないか?

不満はないか?

楽しいか?

そうでない時、それは工夫が必要な時かもしれない。

毎日が

不安なく、不足なく、充実して、楽しくいるための準備は、競技の準備以上に大切なことだ。

それは、自分を整えることが必要だったり、自分の生活を見直すことが必要だったり、自分の人間関係、人間関係にたいする自分の反応、そして、仕事への取り組み方、全てがはいるかもしれない。

何かに焦っている時は、根底が不安定な時であることが多い。それは、仕事でも、競技でも同じ。

我慢とか、無視では片付けられないものがそこには横たわっている。

工夫すること。それが人間に与えられた力だと思う。

今日も見てくださり、ありがとうございます。建設的に工夫することは、難しいけど、楽しい。

                                              小林 克
          

2017年3月12日(日)

 

・時を貯める

時間の流れはコントロールができない。

本当にそうか?

時間というのは、不思議なもので、一定を刻んでいるのに、個人の体感は違う。

楽しい時間は早くすぎ、辛い時は1分が1時間のように感じることもあるだろう。

だから、個人にとっては、必ずしも時は一定ではない。過ぎ去った日々は早く感じ、未来は遠く感じる。

時は貯まるのか?

貯まる思っている。

思いついた時にすぐするように心がけてみた。できるかぎりその作業に集中(いやいややらないように)を心がけてみた。

そうすると、予定していたよりも早く仕事が終わった。

これは、余計な思考作業の時間がはぶかれ、時が貯まったといってもいいのではないか?

そういうふうにできた時間は、思う以上にすっきりと過ごせる。

そういうふうにできた時間は、ある意味、本当に自由な時間だ。

そして、そういう時間は、そうやってすごす時間は、僕たちの中にずしんと貯まっていく。

時を貯めるというのは、その時を大切にすごすこと。なんとなくではなく、過去も未来もつながって生きること。

今日も見てくださり、ありがとうございます。春がきたね!
                                              小林 克
          

2017年3月13日(月)

 

・子供へのまなざし

おいで、おいでと声かけたり、

あっち行ってと離してみたり、

なんで人ってむずかしい?


きっと、不安なんだね。

いろんな波の中で生きれば、

うまくいくこと、いかぬこと

谷あり、山あり色々ある。

そんな不安定は、不安だね。

でも、ひいてみてみたら、それは上下に揺れてるだけ。なにも心配いらないよ。

確かめなくて大丈夫。

いつだって本当は、ここにもあるよ。

目線の先を見てみたら、いつも変わらないものは、すぐわかる。

目の前だけなら不安でも、

その先見たら、明るくなるよ。

変わらないものがあるのなら、明るい色で染めあげよう。

大丈夫だよ。そこでいつもつながってるから。

付きも離れもしないんだよ。

さぁ、明るい色でそめあげよう。


今日も見てくださり、ありがとうございます。今日の朝は、パンかな〜。

                                              小林 克
          

2017年3月14日(火)

 

・「先生治療してくだしゃい。」

この二日間は、待機していなければいけなかったこともあって、丸二日子供と妻と一緒に過ごせた。

丸二日間も一緒にいれたのは、実家に帰るとか、旅先でとかの用事を抜かせば、本当に久しぶりだ。

思いっきりこどもとも遊ぶことができた。

すると、昨日くらいから突然治療家遊びが始まった。

設定は、人形が自分のこどもで、僕は先生。それで、そのこどもを診せにきたというわけだ。

「先生治療してくだしゃい。」

「どんな症状なんだい?」

「お腹がゆるゆるしゅるの。」

「そうかーわかった。診せてごらん。」

と、いつもの流れがあって、僕が実際に普段するように施術のふりをしてみせる。

「はい、これで大丈夫だよ。」

「よかったー!」

ちなみに、この1年間、移転後は、子供がぼくの施術風景を見たことがあるのは、妻に対してするものだけだ。

いったいどこでこのリアルなやりとりを覚えたのか。

本当に不思議なもので、こどもは突然はっとするようなことをしてくれる。

何はともあれ、自分は体をなおしてくれる人ということをこどもがはやばや認識してくれたようだ。

より一層の精進を心に秘めた…(笑)

いつも見てくださり、ありがとうございます。本当に貴重な時間をいただけました。これもこどもと妻のおかげ。
                                              小林 克
          

2017年3月15日(水)

 

・感情による制限

オステオパシーで特に体に着目するのは、人生の中で、どのようなインパクトが身体に起こっていったかということである。

それらは、体に制限を残し、身体の色々にしてくれる自動調整能に少しずつ負荷をかけはじめる。

やがて、呼吸はしずらくなっていき、十分な酸素の運搬や、血液の帰りが乏しくなり、活動がしにくくなる。そして、ある時 何かをきっかけに一気に崩れ出す。それが病気だ。

制限をつくるものとして、感情によるものがある。何か極端に腹が立ったり、悲しくなったり、不安になったりしたものは、細かくみると、体にそのあとを残す。

それは、可動域制限としてもみることのできる、具体的なものだ。

自分の身体を見ていると、だいたい日常の中で制限と感じ得るのは、怒りと、不安だろう。

こういったものは、わりと起こりやすい。こういう感情を感じたあとは、自分で自分を治療するようにしている。

こういった一時的なものは、固着するほどの制限になることは滅多にないが、凄まじく繊細な作業と純粋な集中力が必要なオステオパシーの施術ではあきらかに邪魔になるからだ。

だいたい自分では気にしていないつもりでも、ちゃんと体には残っている。まあ、本当に気にしないスッパリとした人間として、成熟できてたら、そんなこともないのかもしれないが。

やり方は簡単で、息を吸いながら、そういった自分の感情を認知して、吐く息とともに、押し流していくイメージをらもちながら、勢いよく息を吐く。気持ちがゆっくり吐く方がいいと思ったら、それでもいい。

それを何回か、少し集中して繰り返す。そのあと、本当の自分が体中に充満していくように、また何回か呼吸する。

診療後は特に必ずしてから、家へ向かう。

それを繰り返していくと、いかに感情の制限が強固で、自分の行動を知らず知らずのうちに、代償的なものとしているかを確認できる。

損なったエネルギーは、何かで埋めあわせようとする。でも、その損なったと思っているエネルギーは、実は自分の持っている概念によって、自ら手放しただけなのだ。

それを埋めるのは、治療者なら間違いなく自分自身だと思う。

今日も見てくださり、ありがとうございます。そして、概念によるブロックは、人生を通して学ぶことでより良くしていくものでもある。

                                              小林 克
          

2017年3月16日(木)

 

・思考による制限

昨日からの続きになるが、感情による制限というののほかに、思考によって起こる制限もある。

これは、可動域制限などではっきりわかるような、はい変わったでしょとか、明確に提示できるものではない。強いていうなら、筋質や、皮膚、軟部組織の全体的なテンションの強さなどに反映されるか。

思考による制限というのは、多少感情の制限とも関係があって、いうのなら自己の思考、概念を決めるにあたって、元となった体験による制限である。

いうまでもなく、幼少期から思春期くらいまでの体験が大きなキーになり、人は自分と世界の関係や、自分の存在に対しての固定的なイメージを持ち始める。

ただ、この時期のコミュニケーションというのは、なかなかうまくいかない。

本当はそんなことが言いたいのじゃないのに、感情の高ぶりから言葉が出てしまったり、そんなことが言いたいのではないことはわかっているのに、言葉どおりに傷ついてしまう。

愛を模索しながら、自然と身につけてしまう防衛機制は、やがて自分の行動や感情の定型パターンとなっていく。

ちなみにこういったものは、決して悪いものではない。

自分の本音と世界とのバランスをとっているだけでもあるし、ある時期にはむしろ必要だといってもいい。このようなパターンは、与えられる色々な出会い、経験の中で人生を通して、少しずつ変化し、変化させていくものだ。

ただあまりにバランスを崩しすぎているときには、少しだけ補助をする。

これは、ある意味で人生全体の課題であり、人生の目的そのものでもある。

それは、自分の本当の姿を知っていくことであり、世界の本当の姿を知っていくことだ。検討しても、検討しても足らないこの作業を手助けするのは、医療の本質的な役割である。

今日もみてくださり、ありがとうございます。こういうのは、わかっているとすごいという意見が一般的だが、正直それは間違いで、わかっていても意味はあまりない。知るは易し、行うは難しとは、このためにあるような言葉で、自然と実践している人に僕はいつも頭が下がる。

                                              小林 克
          

2017年3月17日(金)

 

・息を合わせて、握る手に自分を合わせて

何もできないことはもうわかっている。

ただ握る手から感じる、その経験のないくらいの力に

痛みの中つまりそうになる息に

なんの役に立つわけでもないけど、自分の呼吸を合わせ、力を力で合わせ、

君の痛みを僕が感じることはできないけど、

君の想いに僕が100パーセント理解できているわけでもないけど、

ただ一緒にその場に、その波に、少しでも乗っていること

それしかできないけど、

それでも、共に乗り越えたそんな気がした。

本当に、本当にありがとう。

そして、ようこそ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。立ち会えたお産は、僕の頭の中に妻よりも刻むつもりで。それが、僕の1日1日を変えてくれています。

                                              小林 克
          

2017年3月18日(土)

 

・目線を広く

もともと柔軟な性格ではなかった。

自分で言うのもなんだが、真面目一辺倒の人間だったように思う。

幼い頃、サッカーに熱中した。

努力という言葉を覚えたのは、この頃だ。

漫画にでてくる主人公は、どんなにつらいときも、苦しい状況でも、あきらめずもがき続けることで、活路を見出す。そんな物語が多かったと思う。

よかったのは、粘り続ける強さを養うきっかけをもらえたこと。

悪かったのは、やや凝り固まった性格になったことか…(笑)

でも、長くサッカーを続けていくことで、その凝り固まった概念もボロボロ崩れ落ちた。

頑張ってもうまくいかないこと、結果に結びつかないことがたくさんあったからだ。

その過程で、がんばり方の意味を学べた。

頑張るというのは、歯を食いしばって耐えるということではないことを学べた。

根強く、客観的に考え、建設的にうまず、たゆまず繰り返すこと。

それまで考えてきた努力とは、全然違う、

フラットなその姿勢を、多くの上手な選手、監督は実践していたからだ。

自分自身へのストレスになるようなことを率先してすることが、自分のためになることだとは、誰も思っていなかった。

サッカーでは表現できなかった思想を、今は医療で表現しているのは、きっと人生には意味があるから。

リハビリテーションは歯をくいしばる努力ではない。

今よりも、目線を広く、世界を広くとらえるためのものだ。

サッカーをやっていた時の僕は、そんなフラットな姿勢はもてなかった。

今やってみてもそう思うけど、なんか強烈なこうなりたいという、幼さから憧れたプレーヤーのイメージを必死で追っていたのだと思う。

それは、自分ではなかった。

上手い選手は、メッシになろうとはしていなかった。自分のプレーを客観視し、深めていたのだ。

そんな経験があったから、今は目線を広くとろうとできる。

全て必要だったのだ。

これが自分の道なのだ。

今日も見てくださり、ありがとうございます。失敗という言葉は、本当はこの世にはない。それは、自分の印象だ。ひとつながりの秘宝(ワンピース)があるのだとしたら、それはきっと人生そのもの。

                                              小林 克
          

2017年3月19日(日)

 

・子供に支えられて

親は本当に子供を育ててるのだろうか?

子供にはいつも、支えられえばかりだ。

時には言葉で、

時には笑顔で、

時には体の反応で、

僕たちが元気に一日、一日を生きれるよう助けてくれる。

でも、僕は治療家だからわかるんだ。

彼女の体にある緊張が、

彼女の体にある歪みが、

彼女もまた僕たちとともに、何かを乗り越え、支えてくれているということを。

自分がちゃんと生きないと。

そう強く思う。

僕が人生を楽しんでなければ、僕が明るくなければ、僕が調子を崩していれば、

それは子供にも影響する。

ネガティヴな思考を手放し、子供たちとともに幸せな世界を生きること。

幸せか不幸せを決めるのは自分だ。

過去に作った思考パターンを押しのけ、ポジティブに建設的に一日一日を過ごすこと。

本当に恩を返すというのは、そういうことだと思う。

今日も見てくださり、ありがとうございます。子は育つ。親は育てられる。

                                              小林 克
          

2017年3月20日(月)

 

・髪を切る

4ヶ月も行けなかったのははじめてだ。

当院が休みになるとしたら、だいたい月曜日なので、当然どこも休みだから。

いつも、髪を切るのは、妻と同じ美容師さんにお願いしている。

前も書いたかもしれないが、職人さんに触れてもらうというのは、特別だ。

さすがに髪のことは、勉強してないので、素人目なのだが、

どこに違いがあってか、わからないけど、終わってみると明らかに違うというのが、職人の仕事というものだと思う。

作業上は、他の人と変わらないように見えるけど、終わってみると、形とか流れとかすべて計算しつくされている。

何ヶ月たって、どんどん伸びるのに、それなりにまとまってしまうから本当にすごい。

オステオパシーでも同じことがいえる。手の仕事は、施術者によって、多くのことに違いが出る。

同じように触れているように見えても、全然違う領域を見ていたり、どこまで意識しているか、なにを考えているかで、結果も、その後の経過も全然変わってくる。

でも、これははた目にはわかりにくいこともある。意識して、ちゃんと経過を自分自身でもみることで、小さな大きい変化に気づける。

それを意識すると、自分自身の治癒力というのは、より働きはじめる。

本当にわかっている人は、多くを語らない。というより、語れない。言葉や認識の有害性をよく知っているからだ。

数ヶ月に一度の意義深い時間。

今日も見てくださり、ありがとうございます。前髪がかからないから、目が大きくなった気がする…(笑)
                                              小林 克
          

2017年3月21日(火)

 

・信念を深める

信念というのは、物事の中核をなすものだと思う。すべてのものごとに、はじめに「こうしたい」という欲求があり、

その次に、様々な観察と、実験と検証があり、そして、きっとこうであるはずだ。という信念ができあがる。あるいは、自分はこうありたい、自分はこうだ、というものが信念となる。

思いはそれ自体が物理的な力を持つ。

「想念は物質である」と言ったのは、ドクターフルフォードだが、手術も投薬もする医師が、真面目にこういうことを語り、支持し、生涯自分の診療の中に取り入れ続けていたのだから、オステオパシーは面白い。

想うことは、ただ想うだけでいいかと言えばそれだけでは不十分だ。

想いの強さは、その想いとどう渡り合ってきたかで決まる。

例えば、実験、検証を繰り返し、絶対に真実だと思える。とか、

日々繰り返し意識してきたとか、

どれだけ、その想いに純粋でいれるかということが、物事の成り立ちに関わる。

・確実性
・持続性
・習慣性

それらが純粋性をつくる。

僕たちのような、徒手施術家は、自分たちの理論や人間観を深めていく必要があるし、たくさんのデータを扱う必要がある。それは、正当性を構築するということだけでなく、想いを強くするということがその、本質的な目的になる。

それと同時に、これは、何かを願うことにも通じる。何かに向かって、挑戦しているひと。きっとその想いは、日に日に強くなって言っているはずだ。建設的に。

今日も見てくださり、ありがとうございます。信じるしかできない時はある。だからこそ、日々が大切。
                                              小林 克
          

2017年3月22日(水)

 

・自分の体

体というのは、大切なものだなとつくづく思います。

自分の体を考えた時

僕は自分の体をメンテナンスする時、

両親を想います。

僕の体は、僕が作ったものじゃありません。

両親からもらったものだからです。

病気とは、不自然な状態が続いた時におこる、それを自然な状態に戻そうとする反応です。

不自然な状態とは、生活や体にまつわる習慣だけではありません。心も同じです。

体はそれを反映しているだけにすぎません。

体をメンテナンスすること、あるいは、自分の中ににある固執から少しずつ解き放たれていくこと、これが、自分の人生にとって、有益であることはだれもがなんとなく納得するところだと思います。

ぼくは、そんな二つの意味をこめてこう言ってます。

「自分も大切にすることを学んでください。」

これは、自分自身という意味でとらえてもいいし、自分に関わってくれている人たちのことをより大切にすると言ってもいいです。

だって、自分のものと言える実体は、一つもないんですから。

今日もみてくださり、ありがとうございます。あなたの心の声っていったいだれなんでしょう?日本語では、両親と良心が同音異義語にあるのは、なんとなく、おもしろいことのような。

                                              小林 克
          

2017年3月23日(木)

 

・日は登る

今日も日は登っている。

曇りでその光が見えなくても、地球の自転がとまっているわけではない。

僕たちの体もそうだ。

細胞分裂は進み、古い細胞は死に、新しい細胞が生まれている。

昨日と同じ一日を過ごすことはない。

人生は進んでいる。

僕たちも変わっていっている。

停滞しているように見えても、微細なところでは、全くそうではない。

変化は少しずつ起こっている。

どうせ進むなら明るく進もう。

今日もまた、新しくやることが待っている。それを精一杯明るく果たしていくだけ。

今日も見てくださり、ありがとうございます。どんなことも明日へ向かっている。僕たちの心もともに進んでいこう。

                                              小林 克
          

2017年3月24日(金)

 

・可能性をつくる

オステオパシーを通じて、僕がリハビリテーションで学んだのは、

体は正確には、動けないということだ。

そして、人間の意志、イメージは、素晴らしい可能性を秘めているということだ。

オステオパシーを通して、全身を把握できるようになったことで、その人の体がどんな動きグセがあるのかが触診でわかるようになった。

麻痺が出たら、人間はそれに対応しようとする。でも、はじめてのことだ。その対応の仕方は、やや自分勝手なものとなり、可能性を、閉ざす方向に向かうことが多い。

リハビリは、そういったくせを見抜き、少しずつ正しいことを繰り返す。反復することで、脳は、シナプスを形成しやすくなる。ただ、正しくというのが非常にみそで、なかなか同じようにやってても、正しくできないものだ。

それを、モニターし、補助し、一緒に新しい頭の中の手足をつくる。イメージの力は不可欠だ。自分の足の未来を過去から想像する。想像した、足の動きに体を合わせる。

アスリートも同じようにやっている。そうやって、みな未来を掴んできた。

リハビリだって、同じだ。

可能性を広げよう。可能性は、棚からぼたもちではない。自らそこへ向かって、はしごをかけていくんだ。

今日も見てくださり、ありがとうございます。そうやって、前向きにやっていくことが、後退しない秘訣でもある。
                                              小林 克
          

2017年3月25日(土)

 

・頭は優秀である。

頭は良い意味でも、悪い意味でも優秀だ。

正確な経験の繰り返しは、自動演算で、古いパターンを新しいものに作り変えてくれる。

古いパターンによって、作られた様々な動作は、全ていっしょくたに変わる。

自己のやりやすいパターンで、行われる動作も残念ながら、すぐに覚えてくれる。

そして、残念なことに、そのパターンは、自己の弱いところをどんどん除外、抑制して、あっという間に定着する。これだから、リハビリはやりがいがあるのである。

脳の法則は単純である。

たくさん刺激されたら、それを選択する。
少数派は、除外する。

だから、やりやすいパターンに陥りやすいし、そこから脱却するためには、弱いところを少しでも使う、つまり少数派をねちっこく使って、少数派ではないと主張することなのだ。

意識するにせよ、意識しないにせよ、勝手にやってくれるその処理は、優秀で残酷である。

しかし、だからこそ可能性がある。

なぜなら、変化できるからだ。

今日も見てくださり、ありがとうございます。頭と体をつなげる。

                                              小林 克
          

2017年3月26日(日)

 

・オステオパシーという名前

オステオパシー…創始者ドクタースティルは、もう一度体の理、自然の理に帰った時、その構造に着目することが治療の第1手段であると気づいた。
その医学は、骨というものから発する病についての探求であったため、「骨」という意味の「オステオ」と「病」という意味の「パソス」を掛け合わし、「オステオパシー」として、新しい医学を唱えた。

「オステオパシー」は、少なくも、力強い動きで、世界中に広がり、日本にもまだ少ないながらにもこうしてやってきている。

しかし、認知度の低さは日本では、まだまだひとしおだ。

横文字であることも預かって、名前も間違われることも多い。

「オクテオパシー」…惜しい!「ク」じゃなくて「ス」!

「オクトパシー」…きっと「オクトーバー」と混ざったのだろう。

「オクトパス」…もはや「たこ」だ。

どうやら「タコ」のようだ。

間違われるのは、「オステオパシー」という単語を聞くと、パッと思いつてくるのは、「オクトパス」という単語のようだ。

私たちは「タコ」に勝てるよう、認知度を広めていかないといけない。

……。

今日も見てくださり、ありがとうございます。……。それはかなり手強い相手だということは、明白である!(笑)

                                              小林 克
          

2017年3月27日(月)

 

・哲学とは?

創始者であるスティルは、自己の実践する西洋医療の不自然な事実に気づき、もう一度自然の摂理とは何か。人間とは何かを考えた。

栄養状態も良く、怪我をしても治す包帯もある裕福な家庭も、それとは真逆の貧困な家庭も、同じように病にかかり、困っているのをみて、医療が常識と思っていることが、すでにおかしいことになっていると思ったからだ。

フルフォードもまた、バー博士の磁場に関する実験に衝撃し、今自分が考えているものだけでは、全てを説明できないとして、新たな人間観に取り組んだ。

見得てないが、確実に存在するところをどれだけ、科学的に把握できるか、治療にとりいれることができるか、一から挑んだのである。

それは、オステオパシー界がグレーにしていたところでもあった。

哲学というのは、決して難しいものではない。

どの方向に進めば、多くの人が良くなるのか、それを多角的に突き詰める。ということだ。

その結果、医療の道が見えてくる。哲学とは、その地図である。

方法論ばかりが、目立ったように見えるのは、焦っているからだ。

戦後、そういった哲学論争というのが、日本でも多々行われた時代があった。

時代は巡り、そのような流れがまた来ているのだろう。

方向性を見失ったとき、すでに進むべき方向性に対しての十分な検討は、過去にされていたことをきっと知る。

今日もみてくださり、ありがとうございます。医療も、変わる。
                                              小林 克
          

2017年3月28日(火)

 

・きっと変わる

長いこと痛みに悩み、

こうしたらいいのか?ああしたらいいのか?

何度も繰り返し、自分の活動をせばめ、

制限する習慣の中生活する人が

もう一度自分の生活をとりもどしていく。

その過程は、氷が少しずつ溶けるようで、

少しずつ固めたからだに信頼をとりもどし、

これはできる、これもできるという体験が自分自身への自信と勇気をとりもどし、

明るさをとりもどし、活動をとりもどし、

ポジティブな自分をとりもどす。

ゆっくり変わってきたからこそ、ゆっくり変わっていってもいい。

よし変えるぞ、と一気に変えたっていい。

変わることは怖いことかもしれない。

でも、本当は怖くない。

自分の人生は自分のためにあるように、痛みもまた、自分のためにある。

必要なのは、戦うことをやめることかもしれないし、何かを手放すことにあるのかもしれない。

きっと変わる。自分でそう思えるだろうか?

今日もみてくださり、ありがとうございます。だれかに治してもらうでもなく、誰かが治してくれるでもなく。結果ではなく、過程をどう歩みたいか。

                                              小林 克
          

2017年3月29日(水)

 

・スティルの格言

オステオパシーができて、もう150年近くがたつことになる。

しかし、今、スティルの臨床推論をみても、なるほどと思うことは多い。

スティルの文章はわかりずらい。

それはそうだろう。一世紀以上前の人物だ。彼の文章を読んで、必要な情報をとってくるには、相当な経験と、自己による臨床推論の習熟が必要だ。

スティルの臨床推論は、徹底した観察にあった。

周りの環境、その方の生活、季節、緯度、太陽の上がり方、既往歴。

からだが環境によって、どう変化したのか?どんな反応をする可能性があったのか?解剖学的な情報から徹底的に考察する、その推論は、さすがとしか言えない。

彼がどんなイメージを体に持って、臨床にあたっていたのか。人の体をどういう観点から観察していたのか。手というもののみを使って、治すその方法は、なんら今と変わらない。

だからこそ、その臨床推論は今みても、参考となるのだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。5年経ったら、以前と全く真逆のことが言われるようになったという情報は、何か根本がそもそも違うと思うんです。
                                              小林 克
          

2017年3月30日(木)

 

・天国と地獄

天国と、地獄という概念を現世に生きる誰かが作った。

全ての人に共通するその想いは、

瞬く間にひろがり、

何か当たり前のことのように語られる。

天国と地獄というのは、現世にいきる人の心の中から生まれたものだ。

そして、天国という概念は、地獄から見た概念である。

天国から地獄は見えない。

天国とは、与える概念。地獄とは、濾しとる概念から生まれたものだ。

人はなんとも言えないパワーバランスの中で生きている。多くの場合、そのパワーバランスは整わず、自分の中で、濾し取られる世界を想定し、そのように振舞ってしまう。

そのように振る舞うと、当然ながら、濾し取られる結果となり、さらにその世界への認識を強化してしまう。頭が良いから。

そのような強化される思考を切り替えるには、二つの方法しかないのではと、思っている。

概念を積み重ね、そうではない経験を積み重ねるか、すでに切り替えている人のそばにいるか。

天国から地獄は見えない。

パワーバランスは、与えることでしか本当に望むように整わないことを理解するには、小さな経験を多く積むしかない。

天国も地獄も自分の心にしかないのだから。

今日も見てくださり、ありがとうございます。今日も経験を積もう。今からできる。1秒からできる。

                                              小林 克
          

2017年3月31日(金)

 

・機能と構造の関係

自律神経は、臓器は、骨格は、

当たり前にいつも万能の機械のようにその役割を果たしてくれているとなぜか思われている。

細胞が常に作られ、捨てられしているからか、
その機能はいつも安定しているように思われがちだ。

永遠にガソリンが自動受給される車があったとしても、走行途中、凸凹道にシャフトが少しずつずれ、それがどこかの部品の磨耗につながり、その影響でアブラが流れ落ち、だんだんガタガタになってくる。

ここで注目したいのは、やがて衰えるということではなく、機能が低下するものには、必ず、構造の欠陥がでて、だんだんバランスがとれなくなり、さらなる構造の欠陥がでていく結果、機能が低下した、となることだ。

自律神経も骨も、臓器も非常に緻密で繊細な構造をしている。細胞も入れ替わってくれるが、そんなことが可能なのは、ちゃんと動脈が栄養を運んでくれ、静脈がいらなくなったものを送り出してくれるからである。

その一方がかけたり、調子が悪くなっても、それは大きな流れに影響する。もちろん、大河と小川だ、少しでは大きな違いにならないが、長年積み立てたラグは、まさに物理的な流れのとおり、やがて表面化する。機能の低下という形で。

自然界で当たり前の原則がある。

人もその例外ではない。

その当たり前で絶対的なことを元にオステオパシーは作られた。当たり前のことは、見えにくいのだ。そして、当たり前のことだから、

当たり前に良くなっていく。

今日も見てくださり、ありがとうございます。機能はまず構造に由来する。
                                             小林 克