今日のフクロウさん

コバヤシがほぼ毎日書くエッセイのようなもの

2017年10月1日(日)


・10月

この今日のフクロウさんを書き始めて、まもなく1年が経とうとしている。

このひと月が終われば、

1年経つことになる。

ほぼ毎日綴ることを通して、文章が様々に変わっていくことを体験した。

伝えることをしている時もあれば、自分の考えを整理しているもの、自分を励ましているもの

その時々に当たって、でてくる言葉は、僕自身も支えてくれていた。

体のことより精神的なこと、解釈のようなものの方を意識して書いている。

本当に大切で、難しいのはそちらの方だからだ。

だからこそ健康というのは、難しく、そして解釈次第では簡単なものだと思っている。

不安や心配という人生にはつきものの感覚にどう付き合っていくかは、大きな課題だと思う。

体の不調を通してそういう状態を経験する人たちは、暗闇の中にいながら、それとの付き合い方を学び続けているようなものだ。

僕を通してでてきた言葉がその参考なったのなら幸いである。

人が生きるうえで、本当に大切なものはなんなのか?

人それぞれだとも言えるけど、一つの答えがあるとも言える。

視点がかわれば見える景色は違う。でも同じものを見ているのだ。

僕は僕という山からその隣にある大きな山を見ていて、あなたはあなたの山からその大きな山を見ている。

でも僕のいる山も見ている山もあなたの山も足元をみれば皆地表でつながっているひとつのものなのだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。だからこそだれかの生きるスタンスほど参考になるものはないと思うです。
                                     小林克

2017年10月2日(月)


・好きと嫌い

好きの反対は「嫌い」ではない。

好きの反対は「無視」である。

「嫌い」は好きでないと起こらない。

好きだからこそ、もっとこうして欲しかったり、

一緒にいて欲しかったり、話しを聞いて欲しかったり、話しを聞きたかったりするのだ。

でもボタンのかけ違いのようなもので、

一緒にいて欲しいのに、いてもらえないことに腹を立てたり、

話しをきちんと聞いてくれないことに腹を立てたりすることがある。

ほんとうは、その状況も少し引いたり、ちょっとの微調整で変わってくることもどこか頭の後ろではわかっているのに、いざ行動するのは難しかったりする。

「嫌い」は強い好きの衝動みたいなものだ。

本当に興味がなかったら、意識にもあがらない。

気にかけることなんてもちろんない。

出会うこともないかもしれない。

僕たちは意味があって出会っている。

それは常に自分を変えるチャンスでもある。

今日もみてくださり、ありがとうございます。年取るたびに、そんな人間関係こそ素敵なものにできるはずだ。
                                     小林克

2017年10月3日(火)


・知識を活かす

知識を本当に活かすというのは、知識を「自分のため」に活かすことだ。

「自分のために」活かさなければ、知識を得たことにならない。

多く見るのは、知識を他人に当てはめようとすること。

他人が求めていたのならそれはよいかもしれないが、求めてもないのに、その知識を使って差別化してはならない。

僕たちはそんな弱さと常に隣合わせだ。

僕たちのえる知識は自分のために出会ってくれている。

自分が変わるために出会った知識は必ずしも相手にもあてはまるとは限らない。

心理学を学んだのなら、それを使ってまず自分の心と向き合いたい。

自分自身が変わることほど尊いことはない。

人生は自分か他人かだ。

変えれるのは自分のほうにしかない。

社会的になりすぎてしまっている僕たちはどうしてもそこに帰るのが苦手だ。

だからこそ、何かあったときにこそ、もう一度思い出したい。

自分を正しく進めていくための知識は、実はもう手の中にあるはずだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。本当に強い人はいつも自分と向き合っている。

                                     小林克

2017年10月4日(水)


・やり方ではなくあり方

何をやるかではない。大切なのはどうあるかだ。

どんな素晴らしい思想から考えられたことだろうと、

どんな期待される研究だろうと、

それが成功するかどうかは、それを取り組む日々のあり方に依存している。

逆に言えばあり方さえよければ、良くなっていくのだ。

しかし、そのあり方というのが難しい。

あり方は一日にしてならず。

毎日、毎日自分は一定ではない。

その中で、嘘でも無理でもなく、素直に自分がどうあれるのかということは、究極と言ってもいいほど難しく、本質的だ。

本当の戦いは、その仕事に取り組むことなのではなく、そんな中でどうあるかなのだということに気づく。

世にでまう他人の素晴らしいといわれる仕事に嫉妬をすることはない。

それが素晴らしい結果をえれるかどうかはどうあるかなのだから。

だから、自分の道を、すすめ。

子育てだろうと、家事だろうと、雑務であろうと、仕事がなかろうと、あり方に取り組むのは全人類一緒なのだから。

今日もみてくださり、ありがとうございました。在り方とは、状態のことだ。

                                     小林克

2017年10月5日(木)


・エビデンス

エビデンスに基づいた理学療法を。

というのが今の最も求められていることで、

クリニカルリーズニング(臨床推論)をできるかぎり、科学的根拠にもとづいて行なっていくというのが理学療法士としての仕事というのは、理解はしている。

でも、それは理学療法士側の意見だ。

自分たちの正当性を高め、職域を守りたいというのは、理学療法士がしたいことである。

患者は違う。

良くしてくれる人に医者も理学療法士も整体士も柔整も、区別はない。

そうであるべきだと思う。

これをプラシーボだというのなら、それこそが真実である。

そう思ってきた。

自分を深めていくことが、自分の手の能力を高めていくことが僕たちの仕事だ。

それが、高まるのならどんな方法でもいい。

自分が信じるものが全てである。他人に信じてもらいたいと思っている段階は、やはり信念は迷いだらけだ。

だから僕は正しさを主張しようと思わない。

正しさはときに狂気であり、時にいいわけだ。

絶えず気にかけるのは、やり方じゃなくてあり方。

そんな経験をへて、思うのはやはりオステオパシーは素晴らしい。

手でわかる。手で感じるというのは、何より素晴らしい。

オステオパシーはそのもっとも先端を走るものだと思う。

僕自身信念がゆらぐことはなくなった。

多くの施術者にこの感覚を経験してもらえたら幸いである。

その上でさらに考えてもらいたい。僕たちが行きたいのはその先だ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。今日も楽しく。
                                     小林克

2017年10月6日(金)


・成長

成長し続けていくことは、人生の理想的な姿だと思っている。

自分の才能を少しでも、一つでも伸ばしていけたのなら、嬉しいものだ。

でも、ふと考えてみると、どんな出来事も最終的には成長を促すためにあったのだと気づく。

その時はつらくともあとから考えると、それは成長のために必要だったと思えることはたくさんあるからだ。

だからきっと、自分の成長を止めるのは自分自身である。

自分でつくる限界が自分の限界だ。

もちろん限界ない自分をイメージするのは、可能たけと、当然常にそれと現実が自分を試してくるものだ。本当にそうなりたいのか?その器になる覚悟があるのか?

お金のことも

自分の能力のことも

自分の考えにだって

つねにその成長を試されている。

試されるのは、その伸びしろがあるからだ。

その要素がある人のところにしかその問題はこない。

どんな成長になるかは、やってみないとわからない。結果は僕たちにはわからないものだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。今日は昨日より変わっている。

                                     小林克

2017年10月7日(土)


・夕暮れ

夕暮れがはやくなったねと、

ほとほと思う。

時間は過ぎている、そんなことを感じながら

あの人は今頃どんな表情でいてるんだろうか?

と、ふと思いをはせる。

僕のあの人はだいたい自分より大概年上の人たち。

僕の未来を、今、生きている大人たちだ。

そのどの人とも違う未来を生きている気がしている。

僕の憧れる大人たちはあまり笑う印象がない。

たぶん30年後、僕はその憧れた人たちよりだいぶん笑ってばかりいる気がしている。

あんまりそういうのには、憧れないんだよなぁ。

だけど、きっとそれが僕らしいということを、自分も知っているんだろうと思う。

とかくイメージするのは、寡黙な仕事ができる男だが、きっとそうはなってないんだろうな。

それでいいと思う。

でも、年をとればとるほど、今よりもマナーをしっていたり、気遣いができたり、本当の優しさをもった人になっていたい。その方向性はきちっと乗っていたい。

たぶんそれにちかづくということは、素直であるということなんだろう。

だから、素直の自分はきっと何でも笑ってるんだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。夢とか未来とか、全部ふくめて、時間が過ぎていくことを楽しむ。
                                     小林克

2017年10月8日(日)


・学生のころ

あの頃はなんにもなくて、

なんもできない自分が嫌で、

広島を飛び出して、大阪にでたり、

何かできる自分を信じて、あてもなくただ勉強したっけな。

就職したらしたで、やっぱり何にもできなくて、毎日申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

とにかく部にあるビデオとか見れるだけ見て、何か作ろうと必死だった。

それから10年たって、いくらか教えたりの仕事もできた。

あのころの自分がみたらどんな風に思うんだろうか?

これからさらに進んでいくんだ。

笑ってリハビリ語れる人にならんとね。

リハビリっていいだろって、

手の仕事いいだろって、

学生に言ってやらんとね。だからがんばれよって背中おしてやらんとね。

言えることなんてそんなないだろうけど、

背中で語れる大人にならんとね。

今日もみたくださり、ありがとうございます。あの頃は〜何もなくて〜 玉置浩二がしみるわ。

                                     小林克

2017年10月9日(月)


・笑えることの強さ

いつもにこやかで太陽みたいなひと。

その人はきっと強いひとだ。

その人は、周りに合わせれる優しさのあるひとだ。

その人は、悲しみを受け入れるちからのある人だ。

怒りをさらっと流すことのできる人だ。

きっと笑顔をつくるユーモアのある人かもしれない。

そして、そうあれるほど人生をよく知る人だ。

きっと想像できないほどの悲しみを耐えた時もあっただろう。

きっと自分を自己否定の渦のなかで暗闇の奥底まで落ちたこともあるかもしれない。

笑顔の裏には、そうやってこれまであった人生の紆余曲折を乗り越え、プラスにした道のりがある。

流されず、踏みとどまり、下を向かず、上を見上げ、後ろを振り返らず、前を見て、

そうやって根強く生きる力がある。

我慢ではなく、挑戦。悲観ではなく、直観。

作り笑いじゃない本当の笑顔は、それだけで誰かを勇気付け、知らず知らず人を巻き込む。

そんな強さを育てたい。

今日もみてくださり、ありがとうございます。みんな色々ある。だから今は尊い。

                                     小林克

2017年10月10日(火)


・秋風の気持ち良さ、少しざわつく空気

少し空気がざわついている。

良い天気秋風にさわやかな流れが気持ちいいはずが、

世の中は少しざわついているようだ。

様々なアクシデント、予期せぬ流れ、秋の風とは裏腹に少し空気がストップをかけている。

うまくいかないとき、どうしようもないとき、
それらを受け入れ、建設的に進む魔法の言葉がある。

「これがよい」

何が本当によかったかはわからない。自分の思っている予定の通りに行くことが果たして本当に良いことか、それはわからないのだ。

「きっと、こっちのほうがよかった」

その時だけでは、わからない人生の流れがきっとある。

今振り返ってみたらいい。遠い昔のことを。

今に続く道のりを確かに歩いてきたのだ。

今、自分の気分に悪いことが自分の人生にも悪いというわけではない。

とりあえず言葉だけでもそう使ってみよう。

今日もみてくださり、ありがとうございます。好きな音楽かけて一息ついて、そこからでも遅くない。
                                     小林克

2017年10月11日(水)


・周期

昨日は何かざわついた一日だった。

僕の周りから多くのトラブルやそれに伴うざわついた心理状況を見聞きした日だった。

僕たちは様々な環境的変化の中で共生している。

気圧の変化、気温の変化。

月の満ち欠け、星の巡り。

昨日は星の巡りとして浄化の働きが極端に作用する日だったと、あとで小耳にはさんだ。

そこに科学的根拠を求めるのは難しい。

何の利益にも解決法にもならないものに、研究費はでないからだ。

だからこそ、全てが科学によって解明される日は来ない。

私たちは自分で感じ、自分で考え、生きていくことがまず基本になっていく。

知識社会となった今、

だいたい考えすぎてしまうものだ。

理由がみつからないと落ち着かない、みたいな。

そんな時は、環境的変化も含めて考えてみてもいい。腑に落ちると落ち着くものだ。

大切なのは今日一日またしっかり歩むこと。

今日もみてくださり、ありがとうございます。少しずつ晴れていく。
                                     小林克

2017年10月12日(木)


・地道であること

自分らしいやり方、自分らしい生き方というのは、わかっているようでわかってないものだ。

自分が得意とする、ということでもあるし、自分が好きということでもある。

自分らしさだって試行錯誤の連続だ。

気持ちよくやれているか?

これに忠実にやることも案外、難しい。

僕の試行錯誤した末、みつけた基本は、

地道であること。

どんなステージに上がったって、そのステージで検討していかなきゃならないことはたくさんある。

短期に極端な成果をあげれるタイプじゃないし、極端な成果がきても、扱い方がわからない。

手先は不器用なわけではないけど、性格は不器用だ。

だから地道であること。

生涯その気持ちでいれるよう努めたい。そうしてる時が自分は楽ではないけど、調子がいい。

今日もみてくださり、ありがとうございます。自分に合った道は、別に楽な道ではない。

                                     小林克

2017年10月13日(金)


・何のために?

「目的」というものを大切に生きてきた。

何か人生には意味があって、出来事には意味があって。

そう思ってきた。

それが理解できるものでも理解できないものでも、その可能性は否定ができない。

だから色々なものの目的を考える。

この目的を果たすために作られたのだから、こういう機能がある。それを達成するために発展してきたのだから、例えば途中でそれがくじけたとしても、ゴールが見えていればそこへ向かうことができるからだ。

目的とは、ゴールのことだ。

目的や過程をみつめることで、現実には見えないことが、理解できるようになってくる。

今見えていることは、現象。

現象の裏に色々なものがあることは、僕たちは日常的に経験している。

科学というのは、その現象の先を考えることだ。

目的は目では見えない。理論と、理屈で予測するしかないのだ。

自分の人生の目的とは何か?

自分のゴールとは何か?

今日もみてくださり、ありがとうございます。だからこそ、そんなことを考えることは大切なんだろう。
                                     小林克

2017年10月14日(土)


・実験や研究について

オステオパシーの研究は難しい。

それは米国にいるDr.でさえ悩むところである。

実験で立証はどうしても状況を固定化する必要がある。

オステオパシーの研究でも、ある一定の手技を決めて効果検討したものはたくさんある。

しかし、オステオパシーとは本来そういうものではない。

オステオパシーとは、筋骨格系や臓器にまつわる原因とおもわれる制限を除去することで治癒を促すという、コンセプトだからだ。

つまり、患者個々によって、同じ症状でも原因となってくるオステオパシー制限がかわってくるのである。

つまりやる手技を疾患によって、固定することができない。

介入をオステオパシーのコンセプトにのっとって施術しましたというものでは、それが何に作用してよくなったのかが、あまりに介入が一定しないため同定てまきないのだ。

だから、いわゆる科学的な分析が可能な研究とならない。

オステオパシーをやりました、数ヶ月後こうなりましたという研究はだいたいポジティブなものとなってしまうし、その他の介入も含めてオステオパシーでもあるため(必要最小限の手術、投薬)
オステオパシーそのものの価値が立証しにくすぎるのである。

一つ一つを検証してもどうも違うのだ。

だから思うのは、説得力なのだと思う。

科学的検証は西洋医学的スタイルの専売特許だ。

その他に代表される医学は常に探求を続けないといけない。あるべき方向性を結果で示すしかない。

スティルはそのことをわかっていたようだ。

同じ土俵にもあがり、なおかつ結果を出す。

生き生きと今より生きるために、最善のことを全てしよう。

今日もみてくださり、ありがとうございます。広めること、難しいながらも検証すること、突き詰めること。すべて繋がってる。

                                     小林克

2017年10月15日(日)


・酒は関係性があるから今日もうまい

孤独な中でのむ酒ほどしょっぱいものはない。

誰かとのつながりがあるから、僕たちは幸せをかんじることができる。

陽気になった時、だれかを想えることは人にとって何よりの安心感だ。

そう安心を求めているのだ。

一人でいれるほど強くはない。

強がってもダメなのである。

潔く繋がろう。

家族がいる。友達がいる。僕と関わりをもってくれていた人たちがいる。

もしも本当に孤独なら、だれとも関わりがなかったのなら、

今日食べたものの味を僕は感じることができただろうか?

うまい酒、うまい食事、楽しい会話

これは人生の楽しみそのもの。

自分が繋がって生きてきた証拠。

大切なものをちゃんと大切にできる人でありたい。

今日もみてくださり、ありがとうございます。顔を上げてみよう。きっと素敵な事が待ってる。

                                     小林克

2017年10月16日(月)


・見ざる、聞かざる、言わざる

「見猿、聞か猿、言わ猿」というのが、かの日光東照宮でみることができる。

見ないでいいものは見ず、聞かないでいいものは聞かず、言わない方がいいことは言わないでいてやるのが良い。

とかそういった内容に僕は意味をとったんだけだど、これはその通りだなぁと感じることが多い。

僕たちは見てしまう、聞き耳たててしまう、言ってしまう。

他人の失敗をわざわざ見て、自分のなにかを満たそうとしたり、

他人のことだからほっとけばいいのに、聞き耳を立ててしまう。

言わなくていいこと、自分勝手なことを随分と言ってきた。

まぁ、つまりは孔子曰く礼節にかくことを見ない、聞かない、言わない、しない。ということなんだけど。

やっぱりそうした方が自分を保てる。

他人を介して、自分を満足させることは、結局難しい。上乗せしようとしているだけだから。

結局穴は埋まってない。

本当の自分を作っていく、成長していくためには、外側は見ないのは良くないけど、見すぎるのもよくはない。

情報社会。これも一つのリテラシー。

今日もみてくださり、ありがとうございます。先人の知恵、あなどるなかれ。
                                     小林克

2017年10月17日(火)


・死んだ夢をみた

自分が死んだ夢をみた。

気づいたことがある。

当たり前は当たり前じゃない。

当たり前にあれること。これは最高のご褒美なのだと。

毎日の仕事。

食事。

お布団があって、

「おはよう」という言葉。

笑いあっていれる時間は人生のご褒美だ。

僕は後悔しかなかった。

もっと大切にできたのに、まだなにもしてやれてないのに、もっと一緒にいて、一緒の時を過ごして…こんなところでは死ねない。

そう思って、目が覚めた。

家族が当たり前にいてくれていることは、当たり前じゃない。家族の努力があってのことだ。毎日の食事。洗濯。掃除。育児。僕を笑顔で迎えてくれる。

それがどれほど尊いことか。どれほど有難いことか。

幸いそれは夢だった。

この感覚を、忘れちゃならない。

今日も見てくださり、ありがとうございます。明日の死を意識して今日を生きる。でてくるものは、シンプルな意識だ。
                                     小林克

2017年10月18日(水)


・大物と姿勢

大物はだいたい姿勢がいい。

施術家にいたってはだいたいそうだ。

一つは体に力みがないから。

厳密に運動学的な良姿勢ではないかもしれないが、そういう人は例えば施術している時、話しをしている時良い姿勢に見えるものだ。

年を取ってきて円背がかってきたって、円背の中で姿勢がよいのである。そう見える。

そんな視点で見ると施術家に限らず、大物は姿勢が良いなぁと感じることが多い。

その人の辿ってきたもの、その仕事への圧倒的な慣れ、余裕が体を超えて見えるのだろう。

だから本当の良姿勢は1日ではできない。

その人がどう自分の人生と向き合ってきたのか?一日一日の積み重ねがその人を構築するのだ。

精神的なものだけでなく、身体も。

今日もみてくださり、ありがとうございます。勘違いしてはいけない。健康はゴールではなく、人生を歩むための手段だということを。

                                     小林克

2017年10月19日(木)


・朝目が覚めた時

目が覚めたら起きる。

寝る前に明日の準備をしておく。

こういうことをしっかりできる人はすごい人だ。

毎日きちっと、誰のためでもなく、自分のためにやれる人。

一日の終わり、そして始まりは一番気が緩む時だと思う。

その時に明日のことを考えて用意できることは、ある意味習慣がなせるものだ。

僕はそういう習慣がなかった。

高校時代から朝方の生活をするようになった。

部活から帰ってきて、ご飯を食べて、お風呂に入ったらそこから勉強なんてできなかったからだ。

朝方4時過ぎくらいに起きて宿題をやるから、眠くなってきたら、すぐ寝てしまう癖がついた。

それそのものは悪くはないが、今はそれはできない。夜帰ってくることが深夜になることもあるからだ。

社会人になってからは、そういう生活スタイルになったもんで、その日のうちにどう仕事をするかが課題となった。

でもこれが習慣がないからなかなかできない。これは心の習慣だ。眠くなったらそれに従うという習慣がある。まだ明日やればいいと思ってねたなら、朝起きた時には、その暇はなかったりする。

心の習慣を変えるには、自分の中の捉え方を少しずつ変えていくしかないことを学んだ。

明日の仕事への意識。一日一日を大切にする気持ち。あまり課題を積もらせない適度な緊張。

繰り返しが自分のパターンを変える。くりかえしは決して、同じことを繰り返しているわけではない。心は毎日チャレンジだ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。ようは、あとかたづけだ。この習慣を今頃になって実践してるのである。

                                     小林克

2017年10月20日(金)


・他人と自分

現代において、人間関係での悩みはたぶん一番に上がってくるくらい、僕たちには身近な問題だ。

会社と自分の関係であったり、

先輩と後輩の関係であったり、

あるいは男女の関係、家族の関係と

僕たちの日常は常に人間関係でできあがっている。

しかし、人間関係ということで面白いのは、

結局自分の内面を変えていくしかないということだ。

頭のいい人はなんとか状況や相手を操作しようとして、一時的にはその場を納めることができるかもしれない。

でも、長い目で見たとき、その時無理に操作しようとした影響がじわじわと出始めているのには、なかなか気づかないものだ。

結局、また違った問題が表象し、変化へのサインとなる。

他人と自分というのは、面白いもので、鏡になっている。というのが従来の考えだが、

ぼくの中では、凸面鏡のような、自分の姿が拡張するような鏡だ。

自分のことを自分で完全にわかっている人はいない。

他人を介して自分をはじめてわかっていく。

凸面鏡と考えたら、起こってきた事象に対して、少し落ち着いて捉えられる。悲観的になりすぎない。

そして、丁寧に毎日を過ごす。自分の心の中にあるトゲ。自分でもまだ意識しないものも洗うように。そうじ。身支度。体を洗うこと。洗濯。家事にはすべてその要素が入っている。

生活が、自分の癒しの場。

今日もみてくださり、ありがとうございます。毎日ぞうきんがけをすると、随分とほこりはたまるものだということにきづく。

                                     小林克

2017年10月21日(土)


・あるがままに

子育てを通して、学ぶことは多い。

子どもを通して、自分の子ども時代を振り返ったり、

子どもの成長を通して、自分も成長していく。

子どもが気づかせてくれることもある。

子どもが止めてくれることもある。

ぼくがあるがままに、そのままに育って欲しいと願うように、

ぼくもそう思われて育ってきたのだろう。

それがどこかで勘違いして、

すでに特別なのに、何か別の特別な存在になろうとしたりしてきたんだと思う。

学びを深めるにつれて

そういった自分に気づいていった。

そんなことを学ぶのも子育てなんだろう。

常に自分が反映する。

今日もみてくださり、ありがとうございます。子どもとともに成長できる、自分の未来も楽しみにしたい。
                                     小林克

2017年10月22日(日)


・頭の良し、悪し。

頭の良し、悪しと、幸せか、不幸せかは関係がない。

むしろ頭がいい人ほど、幸せは遠いのではないかなぁと思える。

なぜなら、不安が尽きないから。

先の先まで読んで、心配できてしまう。

でも、それは逆に言うと安心できる時はないということだ。

「私バカだから、風邪ひかないの。」

こう言われて、ぼくは、それは風邪ひかないよなぁと思った。

だって、自分は風邪を引かない人間だと完全に信じ込めている。

たとえ多少調子が悪くたって、風邪とは思わないだろうし、自分はいつも風邪は絶対に引かないと思ってたら、気分は常にそんな時も前向きだ。それは治癒力を増進する。

目に見えることだけで物事を捉えようとすると、頭の良し、悪しがでてくる。その見えるものをどう取り扱うかが重要となってくるからだ。

だけど、目に見えないものも含めると、それは信じる力になってくる。

信じることに複雑さはない。

余計なこと考えず、信じれる人はそれで信じれるからだ。

頭のいい人は信じ切れる根拠を確立するまで、本当には信じれない。

頭の良し、悪しなんてほんとはないんだろう。

今日もみてくださり、ありがとうございます。目に見えないことも含めたら、本当に優劣なんてないのが世界だ。

                                     小林克

2017年10月23日(月)


・カフェ

最近、自分の入れたコーヒーを妻に褒められたことから気分がよくなって、

他で飲むコーヒーの味を吟味してみたりしている。

もともとそんなにコーヒーは飲めなかった。

律儀に20歳までは飲んでなかったと思う。

よく飲むようになったのは、大学時代の国試の勉強の時だろう。研究室に置いてあったから。

最近、ああコーヒー、割と僕は好きなのだなぁ、しかもどちらかというとアイスコーヒーの方が好きなのだなぁということがわかった。

自分の好き嫌いなんて意識することもなく過ごしてきた。趣味らしい趣味はなく、仕事や家族といる時が楽しい。

もしかしたらぼくはこれからなんだろう。自分を知っていくのは。

自分は何が好きなのか?

その理由とか探るのも面白い。

カフェで飲むコーヒーは美味しかった。やっぱり違うなぁ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。一番知らないのは、自分のことなのかもしれない。

                                     小林克

2017年10月24日(火)


・台風

今回の台風はすごかった。

風や雨がすごかったのは言うまでもないけど、とりわけ感じたのは気圧の低下だ。

お菓子の袋はパンパンになっていた。

僕自身も身体の変化を感じた。

脊柱を手術されていたり、膝に変形があったり、そのような気圧の変化に敏感な方はそれは大変だったのではないかと思う。

多くの場合、この変化はデトックス機能のようなものだ。

外圧がかわれば、それに対応している体のなかの圧力の関係も変わっていく。

今まで滞留していたものが流れ出したり、浸透していなかったところに浸透していったり、変化が起こっていく。

それは多くの場合、歳をとれば取るほど、感じやすくなる。滞っているところが若い時よりも多くなるためだ。

台風が終わったあと、何かすっきりしたものを感じる人もいるだろう。

当然すべての人がそうというわけではないが。

天候もよくなる。久々に晴れ間を見た。

季節がまた変わっていく。

今日も見てくださり、ありがとうございます。不調が残っている方はお早めにオステオパシーを。

                                     小林克

2017年10月25日(水)


・感情の納め方

感情が高ぶるのは、当然のことだ。

何かに怒ったり、悲しんだり、さびしくなったり、喜んだり。

これは人間の人生そのものだ。

感情は抑えるのではなく、納めるのが良い。

抑えようとすると、その時生み出されたエネルギーは違う形に変換、保存され、また違う時期に表出しだす。

感情とは、変化、進化へのエネルギーの一つだ。

ただ固執するとそのエネルギーはコントロールがきかなくなる。少し危ういエネルギーだ。

だから納める。ということが良い。

納めるというのは、心理学的には昇華という防衛機制をさすが、

何も精神的に折り合いをつけたりだけが納めるということではない。

皆さんも経験があるように、何かに集中した後というのは、なぜかさっきまでのムカムカした気持ちが少し治っていることがある。

簡単にいうと何かをするのが良い。

特に僕の経験と実験からいうと、家事が良い。

その中でとりわけ良いのが、皿洗いと床の雑巾がけだ。特に雑巾がけ。

落ちる汚れとともに少しずつ、自分の感情も洗われていく。それは何か代償しているということではなくて、無限に生まれる感情のエネルギーをその時の最善に消化(昇華)しているのだ。

そうすることで、感情的でない問題の解決法も思い浮かぶようになる。

こういう過程を繰り返すことでだんだん精神のパターンも変わり始める。

やがて感情と付き合えるようになる。

今日も見てくださり、ありがとうございます。作業を繰り返す。疲れて休む。これが自然。

                                     小林克

2017年10月26日(木)


・だれかに似ている

あの人、この人に似ているなぁとか、君はあの人になんか似てるねぇ、とか言われたりする。

それはたぶん何かこう、魂が乗り移ったとかではなくて、

その人が、その過去の人(あるいは以前に出会った人)と同じように、自分を突き詰めているからだと思う。

その人がちゃんと自分になろうと生きているから、同じように自分になろうともがいていた過去の憧れ人とかぶるのかもしれない。

生まれ変わりというのは、あるのかもしれないけど、

その時と、今とでは課題はきっと違うと思う。

目指すものも、周りの状況も。

その人は、過去の偉人を目指すのではなく、まだだれもなってない、未来の自分を目指すのだ。

憧れは最初は大切だ。特に若い時は。何かをはじめる原動力はいつだって憧れ。

でも、一旦その道に乗ったなら、対等にならないと行けない。その道を歩むというのは、そういうことだ。

今日も見てくださり、ありがとうございます。どんな自分が待っているか。それはわからないことだけど、きっともう、わかっている。
                                     小林克

2017年10月27日(金)


・医師は決して走らない

僕が病院に勤めていたとき、医師とはこういうことかと思ったエピソードがある。

スタッフの一人が突然に倒れるということがあった。

まわりの人間は騒然としている。

そこに往診中だったのか、

全く急ぐ様子もなく、歩いてベテランの医師がやってきた。

ゆっくりと寝かせて、次にすべきことを周りに指示し、点滴を処方した。


医師は決して走らない。

それは、どんな時も判断を間違わないようにするため。

それは、最後の命の番人としての自覚。

リスク管理であったり、緊急の処置に対して、西洋医学の積み立てたものに叶うものは無いと思う。

今直近の命と向き合い続けた経験が医師には、ある。

だからこそ彼らは走らない。

大切なのは、役割分担だ。だれかが偉いとか、だれかが優れているとかそういうことではない。

それぞれのステージで支えることのできるものは違ってくる。

だからこそ、協調関係、協力関係、そして、それぞれを統合して、新しいものを生み出していくことが大切のだと思っている。

今日も見てくださり、ありがとうございます。中庸が大事とは、よく言ったものだ。偉大な先人の教え。
                                     小林克

2017年10月28日(土)


・しっかり休むこと

人というのはおかしなもので

疲れているときにこそ、さらにしんどいことを、しようとする。

疲れているのに、なぜかああこれも、あれもやらなきゃいけなかったと心は焦り、結局ものごとが効率悪かったり。

痛みがあると、それを確認するようにその痛みが起こる位置に体を動かそうとする。肩をまわしてみたり、痛いところがどんな状態かわからないのに伸ばしてみたり。

自分が疲れていること、しんどい状態にいることに気づくのは、簡単なはずなのに、なかなかできないことだ。

私たちの頭のなかは、我慢がしやすくなっている。

我慢することに慣れた頭は、しんどい時ほど、普通なら機転を利かすことで作業をスムーズにしていたことができなくなるから、ただ我慢することをする。

機転が利かないから、次に来るのは、非効率な思考だ。

普段は思わないようにコントロールされていた不安が吹き出す。

不安をかき消すように、仕事や痛みを繰り返す。

でも、それをすべき状態ではないから結局上手くはいかない。

しっかり休むこと。

体を休める基本は良質な睡眠だ。そのための努力よう。

人間のそうした習性を知っていれば、迷わず判断できる。

今日も見てくださり、ありがとうございます。休む時は今だよ。
                                     小林克

2017年10月29日(日)


・台風

こんな日はもしかしたら、人によってはいつもよりも体の極端な重さを感じるかもしれない。

あまり普段は感じない不安を感じだり、

何かに焦ったりするかもしれない。

少し頭が痛かったり、腰や関節がシクシクするような感じをえることもあるでしょう。

アレルギーの症状のあるかたはなぜだかわからないけど、その症状がいつもでないのに、でてしまうということもあるかも。

こういう時は、そんなことが起きやすいもの。

そんな時は、なんでという思いを一度置いて、少し目をつむろう。深呼吸をしよう。

いつもよりも休憩を多くとって、体操をしよう。

掃除をしよう。

今日はそんな生活を、体を、リズムを整える1日。

台風の日は、そんな風にすごそう。

今日も見てくださり、ありがとうございます。休むことも仕事。
                                     小林克

2017年10月30日(月)


・感じること。

高橋歩が「幸せとか自由とかって感じるもの」

と言っていたことをふと思い出した。

幸せや自由って、こうあったら幸せとかあるわけではなくて、自分がふと思った時が幸せ、と。

人って難しくて、一定の環境では、それを認知できない。

変化があると認知する。

今の生活が幸せってことも、それを失いそうになってはじめてわかる。

だからチャレンジしていくことは、幸せを感じる一つの方法なのかもしれない。

環境や新しいものへ飛び込む時の怖さ。不安。

でも達成した時の高揚感。安堵。感謝。

そうすることで、初めて幸せを感じれるのかもしれない。

変化を続けること。

チャレンジを続けること。そして、それを楽しむこと。変化を楽しむこと。

どんな小さなものでも、それは幸せになるチャンスだ。

勤めてたって、主婦だって、子供だって、だれだってできる。

チャレンジにワクワクしよう。

今日も見てくださり、ありがとうございます。台風があけた朝。少しずつ体が戻りはじめる。新しいステージが待っている。
                                     小林克

2017年10月31日(火)


・背景と可能性

僕たちは一人一人背景が違う。

どんなふうに生まれ、育ったのか?

どんな経験をしてきたのか?

何を考え、どう解釈し、生きてきたのか?

それは時に自分の制限となり、足かせになってきたかもしれない。

時に、過去の記憶のせいで、つらく悲しい時を暮らしてきたかもしれない。

でも、それを乗り越えた先に見えた光は、

だれも見たことのない、自分だけの景色だ。

僕たちは一人としておんなじ人生を歩まない。

だからこそ孤軍奮闘かもしれない。

でも、誰かが奮闘する姿は誰かの勇気ともなっている。自分の知らないところで。

関わることもないかもしれない、誰か。自分が歩む道は、誰かを照らしているのだ。

僕たちは背景は違う。

でも、同じ現代を生きている。どう歩むか?それは大きな可能性そのものなんだ。

僕たちの背景は、自分が作れる大きな可能性そのものである。

今日も見てくださり、ありがとうございます。自分だけの物語を生きよう。だれかになろうとする必要なんてない。
                                     小林克