今日のフクロウさん

コバヤシがほぼ毎日書くエッセイのようなもの

2016年12月1日(木)


・真に客観的であること。

科学は、限りなく誠実にその物事の実証可能性を検討したものである。

そう思っている。

それが現実足ると言えるほどデータを積み重ねたもの。というに等しい価値がある。

それを考えると科学で有用なものは、そのデータになる。

この実験をして、このデータを得ました。

これが科学の最大の価値であると思っている。

しかし、多くの場合重要視されるのは、データではない。

多くの場合は、その考察に目がいってしまう。

こうこうこう考えられました。その可能性があります。

そういう主張だ。

非常に問題だ思うのは、考えられましたとか、可能性があるとかちゃんと言ってるにもかかわらず、それは「事実」だと誤認してしまうことである。

科学という権威がすでに僕たちの中にあるからだ。

この認識から逃れるためには、権威に依存するという心の習性を見直すか、自分がその科学という権威そのものになるしかない。

僕が大学に行って本当に良かったと思ったひとつは、本物の世界的な科学者を見れたことだ。科学という権威そのものの中にいる人とでも行っておこうか。

そういう人だからこそ、言える言葉があり、その言葉は今も自分の訓戒となっている。

「データをみなさい。この実験が、この考察を得るのに十分に欠陥がないか考え、その信憑性を検討し、自分で判断しなさい。

 考察を見る必要はない。」

その言葉にハッとさせられてから、3年後、僕はオステオパシーに出会った。

創始者である、スティルもまた、もう何十年も前の人にもかかわらず、そういった思想をもって真に科学的に生きた人だった。

一般に言われていることを自分で再検討し、普遍的な事実、自然の科学(摂理)を探求し、来る日も来る日も骨や人体を触り、探求しつづけてできた考えがオステオパシーだ。

スティルが残したのは人体に対する哲学だった。

そして、その後輩たちが後にその哲学をもとに、各々技術を開発し、今の形となっている。

思えば、僕の道のりは学生の時から決まっていたのかもしれない。

今はバラバラにある点と点もいつか線となる日がきっと、来る。

今日も見てくださり、ありがとうございます。12月。イベント続き。楽しみだなぁ。さあ、せわしなく過ごそう。いそがしいそがしと笑いながら。

                                              小林 克
          

2016年12月2日(金)


・客観的であるために

治療とは何か?癒えるとは何か?

そして、目の前の患者さんをこれまでよりも、さらに良くするためはどうするべきか?

これらの考察、日々のチャレンジを達成するためには、現在知られている科学によるデータだけでは足らない。

ぼくの臨床は、常に結果が求められるからだ。結果が、良いという方法を試したのに、その論文通りの結果はでなかった。

そんなところで終わることなんてできない。

少しでも、その次の未来に届くために自分で意識していることがある。

それは、含有的であること。

科学的に検討されたもので、良い結果がでたとする。それは、立派に参考にできる意見だ。

しかし、違う介入でデータはなくとも、良い結果がでているのだとしたら、

それも、参考にできる意見だ。

その背景に、共通する原理、その背後にある変えうる力となったものは何かをいつも考える。

今は、色んな情報がある。

こうして、よかった。ああして、よかった。ここにいってよかった。あそこにいって、よかった。

これらは立派なデータだと思う。でも、考察があっているとは、限らない。

実験系には、多くの場合、ある考察を支持するものもあれば、否定するものもある。だからこそ数をそろえて、ぼやーっとその全体性の言えることを浮き彫りにする。

そんなことを日々やっている。

やり続けるとぼやーっとわかってくる。

何が物事を動かしたのか。根底に流れるものはなんなのか。

発表できるものではないけど、そっちの方が客観的と思うんだよ。

臨床とは、そういうところだと思う。

科学のその先へ。僕たちの臨床からスタートしていく。

今日もみてくださり、ありがとうございます。だかはこそ、経験は財産だ。しかし、意味のある臨床経験を作っていくためには、常に考え、感じるしかない。

                                              小林 克
          

2016年12月3日(土)


・満員電車

病院という現場から在宅の方のリハビリに関わらせてもらって、だいぶたつ。

病院時代、できる限り在宅に戻ったあとのことをイメージしながら臨床をしていた。

しかし、在宅という現場に場を移してみると、やはり頑張って想像して、配慮しても、本当に見て、経験することに代わるものはないと気づく。

患者さんたちにとって、本当のスタートは在宅に戻ってからだ。

でも、在宅に戻ってからのサポートの体制は、受け皿は弱いように思う。在宅医療の裾野は少しずつ広がっているが、絶対的に十分とは言い難いし、例えば健常に近いが不具合があるなどといった場合は、そのような対応から外れてしまう場合もある。

僕がまだ新人時代地域医療のある高明なドクターの講演に行った時聞いた言葉を思い出す。

「保険ですべてをまかなうのは不可能だ」

多くの部分を、手助けするのは、ほとんどが人と人のほんの少しの気づかいや配慮だと思う。

そんな一つ一つが重なって今の医療はなんとかもっている。

ただ在宅にでてみて、これは如何ともしがたいなと思うものもいくつか知った。

例えば、朝の出勤時の満員電車だ。車椅子で復職している人も当然ながら出勤せざるを得ない。

その時の車椅子を乗った方の恐怖心や、罪悪感は本当にキツイことだと思う。

出勤時間をコントロールしたりとかそんなことが柔軟にできる社風のところがたくさんあればいいが、そうもいかないのが現状のようだ。

かといって、この満員電車の現状をどう変えたらいいか?

大きい課題は山積してる。

一億総活躍社会。ただ言うではなく、本気でそうするつもりで考えないとただの机上の空論となってしまう。

きっとそれは、障害を持って暮らしている人も、その暮らしをサポートしてる人も、会社の人も、行政の人も、メディアの人も

それぞれ考え、実践しあい、アイデアを出し合う時がいるのかもしれない。

それをやっていくのは、間違いなく僕たちの世代だと思う。

今日もみてくださり、ありがとうございます。会社が地方にも分散したら、満員電車ってなくなるのかな。甘いか。そんなことをひとつひとつ考えて、ぼやーっと浮き彫りにしていったら、なんとなく向かっていく社会という協動体のすがたが見えてくる気がする。

                                              小林 克
          

2016年12月4日(日)


・ふわっとした世界で。

僕たちは、目に見える世界を生きているよう思う。

でも、どうやらそれは違うようだ。

正確にいうと、僕たちは目で見て、認識できる世界を生きている。

同じ景色を見ても、人によって印象が違うように、印象が違えば、それについての言葉も変わってくるように、言葉が変われば、そもそも別の出来事であったかのように、

僕たちは自分の頭の中の世界を生きている。

それは、一人一人違うのは当たり前で、一人一人の物語の中を生きている。

そんなそれぞれある意味で自分勝手な世界を生きて、そして出会う色んな他の物語に感化されながら進んでいく。

きっと、そんな関わり合いは、大きくもあれば、小さくもあり、否定的なものもあれば、肯定的なものもあると思う。

でも、できるなら、建設的なものを作っていきたいものだ。

それも、自分がどんな物語を生きようとするかなんだろうなぁ。

でも、物語と思えれば、全てがドラマになるじゃない。

今日もみてくださり、ありがとうございます。今日は晴れたね。雨もいいけど、晴れもいいなぁ。

                                              小林 克
          

2016年12月5日(月)


・心を亡くすと書いて「忙」いそがしいと読む。

心を亡くすと書くと、「忙」いそがしいとなる。

うまいこと書くなぁ

なんて、思ったりしながらふと思う。スケジュールが詰まってるから心をなくすのだろうか?と。

ハードなスケジュールの中でも、心をなくすことなく、丁寧にしっかりとその瞬間を過ごすことはできる。

では、何によって心をなくすのか?

そう考えているとピンっときた。

期限だ。

しなければならないことがあるのだとして、年末はなんとなく期限をきられてる感じになる。

当然ながら、年賀状、新年に向けての準備、もろもろ期限付きで混み合うのが年末だ。

でも、仮にこう考えてみる。

年賀状は年末を超えてもいいこととする。新年の準備もちょっと超えることはオッケーな感じにする。

するとどうだろう。心は少し軽くなる。

簡単な話だ。

心をなくす本当の原因は、自分自身だったということ。

自分で大きすぎるプレッシャーをかけてしまっていたのだ。

忙しいとは、そんな自分のいっぱいいっぱいの心の状態を表す言葉だろう。

プレッシャーがかかって、判断しにくくなれば、自ずと目の前のことを片付けにくくなっていく。

物事を進めるには、程よい緊張のバランスが大切だ。

そうやって、自分を外から眺めてみると、意外に簡単な自分の心の構造がわかるかもしれない。
わかった時には、もうその心の状態はすでに変わっている。

今日もみてくださり、ありがとうございます。落ち着くと作業効率は全然違う。作業が進むことで、落ち着くこともあれば、心を見ることで落ち着き、作業できることもある。心とからだは相互に関係している。

                                              小林 克
          

2016年12月6日(火)


・寒い時には、熱いもの

寒い時期に入った。

寒いんだけど、暖かいときもあり、今年の冬は、なんだか変な感じだ。

でも、急に気温が下がることもあり、体調管理は難しい。そんな冬かな。

寒いと、嫌なイメージを持ちやすいものだが、良いこともある。

寒いときは、暖かいものが美味しい。

お鍋と日本酒。

幸せな関係だ。

うちは、誰かがくるとお酒が置かれてることが時々ある。僕が特別買うことはあまりないのだが、そういった突然の置き土産をちびちび飲んだりする。

美味しいね。

美味しいは、幸せな言葉だ。

昔、糸井重里のコピーライトに

「おいしい生活」

というのがあった。そのときはあまりわからなかったかもしれない。

幸せな生活って、なんなのかなって思ったら、

本当はきっとこんな生活なのかもしれない。

みんなの集まる食卓がある。

その食卓で、みんなで

おいしいね

っていいあいながら、今日あったできごとを話したり。

これに代わるものって、きっとないよね。

そんなことを思えるのも、きっと外が寒いからなのかな。

そんなことを思った。

今日もみてくださり、ありがとうございます。日常にある、当たり前に通りすぎそうな幸せを幸せと感じれる。そうありたいと思う。

                                              小林 克
          

2016年12月7日(水)


・あることだけを見るとそれだけが強調される。

主張というのは、難しい。

あることを主張として言うとどうしても一方の側が、強調されてしまう現実がある。

例えば、「自立支援」という言葉一つにとっても、それだけを強調してしまうと現場で実際に起こっていることとは、かけ離れていってしまう。

ものごとの実際は、たいてい一つの要素では言い表せない。

食事に関してもそうだ。栄養学に立脚するものもあれば、その土地の風土の気質を大切にするもの、生命力といった不可視のものを大切にするもの、様々だ。

そして、だいたい全部ある部分は正解なのである。

自分はどちら側。というのはあっていい。

ないと、逆に話にもならないこともある。

でも、他方の意見も尊重したい。

きっと、そうやってバランスを取ってきたのだ。たくさんの色がだんだんと、浸透し、違う色になっていくように、きっと、主張の先にあるのは、全く違う主張なのかもしれない。

ものごとは、実際は勝ち負けじゃないんだろう。

勝っても、負けても、実際にはゆっくりとしか進めない。長いスパンでみれば、一気に変わったように見えるものも、ゆっくりと進んできただけということに気づく。

そうやって進んできたものは、不十分かもしれないが、決して悪いものではない気がしている。

ただなんとなく。

今日もみてくださり、ありがとうございます。深夜の麺類に幸せを感じた。

                                              小林 克
          

2016年12月8日(木)


・ずーっと先の方を見てきた。

歩むべき道、歩みたい道がわからなかったから。

行きつきたいところはあるけど、どう行けばいいかはわからなかった。

そんな思春期の悩みを超えて、

今は自分の、自分で決めた道を歩んでいる

きっとここだろうと、そこに行き着くルートはここだろうと、自分で選んだ道だ。

今は先ではなく、今歩んでいる道をしっかり見る時だ。

踏み外さないよう、少しずつ少しずつ石を置きながら進む。

でも、時々不安になって顔を上げるんだ。

行きたいところは見えているか?

きっと、そこに行き着くためには、無理にでも道を作ることが必要な時もあるのだろう。

今はそんな時も見据えて、一つでも、経験が欲しい。そんな時だと思う。

しっかり足元をみて、石を置きながら歩く。

今日もみてくださり、ありがとうございます。道がないなら作ればいい。渡れないなら、渡れるところを探すのも、渡れる橋をつくるのも、全部自分の自由だ。
                                              小林 克
          

2016年12月9日(金)


・憶えているだろうか、あの時のぬくもりを

抱きしめられて、心地よさを覚えるのは

抱きしめられて生きてきたからだ

手を繋いで、安心感を覚えるのは

手を引っ張ってきてもらったからだ

僕たちはいつの間にか頭で生きるようになり

その時のことは、どこか遠くのことのように感じてしまう

心のトラウマや傷を感じるのは

その時に戻りたいからかもしれない。

でも、その時に戻れることはもうないから。

時は巻き戻せないから。

だから、思いだすことが、その感覚をもう一度しることが、

大切な時があるのかもしれない。

薬ではなく、手術でもなく、触れることでしか変えれないものがある。

そういうものを大切にしたい。

今日もみてくださり、ありがとうございます。自分が触れても、触れられても、きっと僕たちは、抱きしめられている。

                                              小林 克
          

2016年12月10日(土)


・あきらめることは美しい。

「あきらめることは美しい」

ある時、糸井重里と宮沢りえの対談を見ていたら

こんな言葉が目についた。

「あきらめることは、美しいことだと思うんです。」

一見マイナスに見える言葉、マイナスに見える状態は、

自分ではきっとそうは思えないかもしれないけど

人を惹きつける瞬間でもあるかもしれない。

それは、きっとその奥にある色んな葛藤や生命の瞬き、そんなものが僕たちの感情を揺さぶるんだろう。

ネガティヴなところにこそ、美しさがある。

自分のネガティヴなところは、同時に人を惹きつけるものでもあるんだ。

僕がもっと歳をとったとき、吸いも甘いも経験したそんな深い目をしていたい。

常に多少のプレッシャーを感じながら、やりたいことと、やるべきことの中間にいる。

そんな大人でいたい。

そんなことを思った。

今日もみてくださり、ありがとうございます。諦めたときもさ、諦めないときも、きっと生命は光ってるんだよね。当の本人は必死すぎてだいたいわからないんたけど。
                                              小林 克
          

2016年12月11日(日)


・補うべきは愛

オステオパシーには、手を触れて、

いわゆる体がゆるまる。

柔らかくなるという感覚を得ることができる。

それを体の本当に微細な動きを操作することで、

体の中に実現し、

体を良い方向に進ませるというのが、

オステオパシーの真髄的なところでもあるのだが、

この現象は、自分の心持ちでも変えることができる。

もし、そのような経験や機会がある人は試してみるといい。

触れるその人のことを、

自分の本当に大切な人、親とか恋人とか子供とか

そういう存在だと思い、その体をねぎらかうかのような、感謝するかのような、愛しいような

そんな気持ちになって、触れてみる。

そうすると、まるで凍っていたものがとけていくように、

絡まっていた糸がほだされるように、

体がゆるまっていくのがわかるはずだ。

感覚がよければ、よいほどその変化は理解でき、

理解できればできるほど、体は変化する。

そんなことをずっとやっているとだんだんわかってくることがある。

その時、その時で必要な愛の表現は違うということ。

じっと父のように見守るのがいい時もある。

母のようにねぎらうような、そんな気持ちであるときが大切なこともある。

息子が母の肩を揉むように、感謝を込めることが良い時もある。

人によって、伝わる愛は変わる。

でも、必要なのは、愛である。

触れるということも、言葉をかけるということも、研鑽することも、一つ一つ思いを込めて、思いを重ねて、

そして

それは伝わっているんだ。

そんなことが触れるとわかる。

そんなことが手による医療です。

今日もみてくださり、ありがとうございます。
きっとこんなことが経験できたら、医師も看護師さんもそのほかのたくさんの医療関係者ももっと楽になるんじゃないかなぁ。だから、誠実に精一杯伝えて行こうと思うよ。


                                              小林 克
          

2016年12月12日(月)


・みんな一つの細胞から生まれた。

誰もが最初は同じものだった。

一つの細胞だ。

その細胞が幾重にも細胞分裂し、その果てに僕たちは出来上がっている。

皮膚も、脳も、臓器も、神経も、血管も、細胞分裂の果てに出来上がったのだ。

だから、全ては繋がっているのは当然なんだ。

でも、このことを現実的には、今の医学は捕らえられていない。

全ては繋がっているのは明白なのだから、臓器間の解剖学的な位置関係が互いの機能に影響しうる可能性もまた、否定はできないのだ。

これにオステオパシーは果敢に挑戦している。

また、この一つの細胞から生まれたという事実は、

様々なことを教えてくれる。

世に性善説や性悪説などあるが、

最初の細胞に善も悪もない。

最初から命はあるがままに平等で、

あるがままに受け入れられていて、

今悩んでいることも、なにもかも、

本当は思う必要のないことなのかもしれない。

欠けているところなんかないのだ。

ちゃんとあるのだ。

事実をちゃんとみれば、遠くからも、近くからも、横からも、斜めからも、

そうすれば、見えてくる。

たいそうな学問が必要なわけではない。

そう思うんだよ。

今日もみてくださり、ありがとうございます。みーんなわかってるんだよね。頭では。当たり前に。でも、それを感じている人は少ないのかもしれない。

                                              小林 克
          

2016年12月13日(火)


・治療家として生きるとは

「人を知らねば、人は治らじ」

人間とはどういうものか、

なにが大事で、なにがきっかけで、なにが原因か

人間とはどういうものかを考えた時間が、

治療家としての力になる。

自分の感情を知らなければ、相手の感情を受け止めることはできない。

自分の思考を知らなければ、相手の考えていることを受け入れることはできない。

自分の生き方をしらなければ、相手の人生を変えることなんか到底できない。

自分が人生を歩む全ての道のりが、治療家への道。

だから、経験は尊いね。

経験することは尊いことだ。

でも、これからは

経験を作っていきたいな。

自分で動いて、動いて。

経験を作っていきたい。

人生は限られてるから、

明日がある保証は誰にもないから、

今日の経験を大切に、そして作っていきたい。

そう思ってるんだよね。

今日もみてくださり、ありがとうございます。今日の一文が、明日につながる。そんな思いで言葉を拾うよ。

                                              小林 克
          

2016年12月14日(水)


・ギリギリで伸ばす一歩が、次をつくる。ここに理屈はない。

何かに取り組んでいて、ああもう間に合わないとか、もうダメだという時はあると思う。

そういう時、

もちろん、最大に気をつけてなんだけど、特にペダルは緩めないことにしている。いつものまま、いつものペースで。

偶然か必然か、

何かが巡って、チャンスが転がり込んでくることがあるからだ。

元サッカー日本代表監督の岡田武史さんが勝敗について言っていた言葉を思い出す

最後のところで足が出せるか?

最後のところでダッシュできるか?


きっと本当に達成したいことがある時って、

それしかないんだと思う。

分不相応かもしれない。

そんな能力なんて、はなからないかもしれない。

でも、やると決めたのなら

もうやるしかないから。

そういって、手繰り寄せる糸が、そうやって放散する熱が、

偶然か、必然か

チャンスをくれるかもしれない。

ここに理屈はない。だって、結果は未来にしかないから。

今日も見てくださり、ありがとうございます。頑張れ受験生。成長は一次関数ではあらわせない。階段のように足踏みしながら登るもの。

                                              小林 克
          

2016年12月15日(木)


・冬は寒い

昨日くらいからか

本当に寒くなったなぁと感じる。

そんな中でも、子供は布団を蹴っ飛ばして寝ているから不思議だ。

深夜に帰ってくる僕は、子供を自分の方に引き寄せ、自分と同じ布団をかぶせて、温めようと抱きしめる。

でも、あっためてもらってるのは、自分なんだよね。

子供はいつもほっかほっかなんだ。

子供と親の関係ってきっとそうなんだろうと思う。

僕よりもずっとまっすぐで、

僕よりもずっと大きくて、

そんなふうに僕を親でいさせてくれるんだ。

自由に生きるって言葉が目につくけど、

自由なんか最初からないよね。

だって、つながりの中で生きてるから。

そのつながりは変えれないし、変えたくないし、もう大切にするしかないから。

だからがんばれるんだよ。

今日も見てくださり、ありがとうございます。冬はあけるよ。いつの日か。
                                              小林 克
          

2016年12月16日(金)


・後悔しない人生

後悔というものをしない人生はないと思う。

あの時こうしておけばよかった。

そんなこと、あげたらきりがない。

でも、自分の人生の終わりを迎えるかもしれない時、ああようやく楽になれる。そんな風に思うような後悔は、避けないといけないと思う。

もし、そう思ってしまわざるをえない分岐点がきたのなら、

その時は、命をかける決断と勇気が必要なときだと思うんだ。

そんな負い目を背負って生きる人生に、健康なんて舞い降りることは不可能ではないか。

僕たちは主役だから。

自分の人生の主役だから。

脇役とか、相手役とか、悪役とかそのほかは引き受けられないよ。

だから、覚悟をきめないとね。

今日も見てくださり、ありがとうございます。あなたがあなたの人生をいきることは、からだにとってもきっと大切なことじゃないかな。

                                              小林 克
          

2016年12月17日(土)


・冬のおかゆ

朝家族みんなで、顔を揃えて食事ができる

ほかほかのおかゆに梅干し

前の日が飲み会なら大根おろし

小さな子供も大きな大人も

はふはふ食べて。

子供は上手に食べれる姿を見せてくれる。

にこって笑って、上手に食べれたでしょって言いたげだ。

頭をなでて、すごいねって

またおかゆをはふはふ食べる。

今日は寒いけど晴れていて

南向きの窓のそばにある食卓テーブルには光が入ってくる。

そうやって今日も元気に過ごす確認をする。

今日も見てくださり、ありがとうございます。何が言いたいかって、言いたいことなんて何もないんだよね。
                                              小林 克
          

2016年12月18日(日)


・東京

東京はやはりなにか違う

なぜだろう。東京に来ると、芸能人に会える気がする。

なぜだろう。東京に来ると、自分の身長が少し高くなった気がする。

ああ、天井が低いからか。

そんな東京にもおかげさまで、年に何度かくる機会に恵まれ、

少しずつ慣れてきたように思う。

ものすごい長いエスカレーターにも。

東京駅からの乗り換えも。

セミナー会場への移動の感じも。

自分が過ごしたことのない土地に少しだけ慣れる、なんとなくわかるというのは、本当に幸せなことだと思う。

それだけ、外に出る機会をもらってきたということだ。

それだけ、多くの人と触れ合う機会をもらってきたということだ。

これまでも、これからもそんな時間を大切にしていきたい。

今日も見てくださり、ありがとうございます。東京駅でのJRの乗り換え。今は大丈夫も、はじめは迷ったなぁ。なんせ大きいし、駅いっぱいあるし。

                                              小林 克
          

2016年12月19日(月)


・熱を重ねるように

なんかふと思ったことがある。

ネットでFNS歌謡祭の長渕剛さんの演奏

もう芸能界の重鎮中の重鎮が、この一回にかけるかのような演奏は、エンドロールで共演者の顔を皆固まらせるほどのインパクトがあった。

今朝、朝の出町柳駅、民進党の前原さんが一人で演説しているのを見た。

なんかそんな光景をみて、ふと思ったことがある。

政治家は、国政に立つには、信頼がいる。その信頼を得るためには、政治家として知られるように活動をし続けることが必要だ。

歌い手も、結局は知られなければ表舞台にでることはない。知られるためには、一つ一つ歌い手としてステップアップすることは、必ず必要だろう。

もちろん有名でさえあれば、ある程度なんでもできるかもしれないが、職人といった生き方ではないだろう。マルチでなんでもできるという感じか。

一つのことに熱を込めるのは簡単なことではない。色んな自分に向き合うことになる。

色々な経験は本当に財産だけど、治療家としてそれを経験するのか、一人の小林克としてそれを経験するのかは、意味が違ってくる気がしている。

人生なんでも10年というけど、何かを得るにはそれなりに時間が必要だ。

その1日1日をどう熱を込めて、熱を重ねるように生きたか。

それが、ある時に見せる凄みとか、覚悟とか、気迫とかそういうものに変わる気がした。

治療家は治療家としての道を進むしかないのだろう。それを自覚することは大切なことだと思った。

今日も見てくださり、ありがとうございます。経験を経てきている人はやっぱりすごい。一つ一つを素直に実直にやってきた人というのはさらにもう一つすごい。

                                              小林 克
          

2016年12月20日(火)


・呼吸

呼吸は、なくてはならないものである。

呼吸ができないという人はいない。

呼吸ができなければ、それこそ命の問題だからだ。

でも、上手にできないという人は、意外に多い。

当院に来る方たちの中にもそういう方は多くいる。

自分では気づいていない人も多い。

たいていの人は浅く、早い呼吸となっている。

そして、自分で呼吸を意識的に調整することが難しくなっている。

ではどんな呼吸がいいのか?

僕は気持ちよく呼吸して下さいと言っている。

ん?

気持ちよく?

そう、たいていの人は呼吸を通して自分を感じることができなくなっている。

気持ちよく呼吸をするというのは、簡単なようで、難しい。

なぜなら、自分の状態、体の状態で変わるからだ。

吸うのが気持ちいいときもある。吐くのが気持ちいいときもある。あるいは吸ってから息を止めたり、そして、ゆっくり吐いたり。パターンは日によって、時間によって、自分の状態によって違う。

でも、この感じが気持ちいい。

これさえわかっていれば、そのパターンを探すことは簡単なのだ。

そして、そういう呼吸を続けてみよう。そうすると、自分の状態、体の感じが明確に変わっていることに気づくはずだ。

今日も見てくださり、ありがとうございます。呼吸があなたの体を表します。呼吸があなたの生命の質を表します。感じることからはじめよう。きっと感じれる。
                                              小林 克
          

2016年12月21日(水)


・家族写真

年賀状の時期だ。

いつも年賀状には、家族写真を使うことが多い。

一年間とった家族の写真をみながら、

少しずつ自分たちの顔が変わっていっていることや、子供が成長していっていることをみる。

一年前とはまた、違う顔だ。

子供が生まれてから、両親たちの凄さをより深く感じるようになった。

きっと彼らのアルバムには、僕たちよりももっと多くの家族写真がある。

当たり前のことのように思うが、それはきっと当たり前のことではない。

1日、1日を積み上げ、色んな出来事、壁を乗り越えて来たんだと思う。きっとそれは、多くの人が一緒。

家族の写真は、家族の歴史。

それがちゃんとあるのは、決して当たり前じゃない。

だからこそ、1日1日しっかりと生きていたい。完全燃焼で。

ゆっくり丁寧にページをめくろう。

そんなことを思った。

今日も見てくださり、ありがとうございます。今日は霧が濃い。電車もゆっくり進んで、遅延がでてるよ。きっとこれも1ページ。普段は見れない景色が見れてる。

                                              小林 克
          

2016年12月22日(木)


・僕たちは記憶の中に作るストーリーの中を生きる

起こった当初はなんでもないような出来事が、

あとで、自分にとっては大切な経験だったのだと気づくことがある。

自分のストーリーをあとで見返し、他人に語ることで、その詳細は正確かどうかはわからないが、語ったことがそのまま自分の真実になることがある。

僕たちの記憶は、与えられるものでもあり、自ら作るものでもある。そして、それらは、今の自分を作るものでもある。

「あの時かけてもらったあの言葉のおかげで、今の自分がある」

例えばこう思えることがあるのなら、そのストーリーは今の自分を肯定するものとなる。逆に、

「あの出来事がなければ、今の自分はなかったのに」
 
ある体験も、その体験に対する今の解釈で、今の自分の存在を肯定するものにもなれば、否定するものにもなる。

僕たちは記憶の中を生きている

ともいえるし、

記憶の解釈の統合された現在を生きている

ともいえる。

つまり、今の肯定感は、積み上げられた記憶の解釈によってなされるとも、言えるかもしれない。

これは生きる上で大きなヒントとなる。

どうしてもつらい記憶はだれにでもあるものだ。

急に変えることなんて当然できない。

変えようとさえ思わないかもしれない。

それでいいです。

でも、多くの場合、自分の記憶の中にある姿は、あくまで自分が決め、自分が解釈した姿であること。その本当の姿を知った時、はじめて、記憶は変わり始める。

できなくても、知っていれば、気づいていればいつかは変わるから。

変われるくらい自分が変わって来た時には、きっとそんな解釈が降ってくる。

大丈夫よ。

今日も見てくださり、ありがとうございます。時期というのはあるもの。ひとそれぞれね。

                                              小林 克
          

2016年12月23日(金)


・インドへ行く

もうだいぶ前のことになるが、妻と一緒にインドへ行ったことがある。

その当時、僕は二度目の海外旅行だった。

妻がヨガを教えていたこともあり、

一度ヨガの聖地に行ってみようということで、

ツアーも使わず、全てを自分たちで決めて臨んだ。

その旅行は旅行ではなく、冒険のようなものとなった。

相次ぐトラブル。日本とは全く違う文化、価値観、ひと。そんな中を緊張感を持って進むのは、旅行でイメージする安心感など全くなく、アドベンチャーゲームの主人公にでもなったかのような、そんな心境だったのを覚えている。

あまりの文化、価値観の違いに、(たくさんだまされかけたこともあって)当時帰ってきた直後は、

「もう二度と行くか!」

そう思ったものだ。でも、日常にもどって、一週間、二週間と経つうちに、ああ、しんどかったけど、 楽しかったなぁ。とか、次もし、行くならここに行きたいなぁとか。とか、インドがテレビに出ているとなんか親近感を持ったりして、結局

「また行きたいなぁ」

と思ったのだった。

人間には刺激がいるのかもしれない。違ったものに触れ、違った環境、違った状況に触れることは、自分の価値観、枠組みを大きく変える。

日常では使うことのなかったようなエネルギーを使い、日常にはないエネルギーをもらう。

そういうことは、より日常を親しむきっかけをくれる。

そういう機会を逃さないようにしたいものだ。

1日1日をより楽しむために。

そういうチャレンジを応援したいと思っている。

今日も見てくださり、ありがとうございます。
かといって、またインドに行く予定があるわけではないんだけど。大きく自分を変えた経験の一つ。
                                              小林 克
          

2016年12月24日(土)


・シンクロ二シティ

「意味のある偶然の一致」

昨日はたまたま旅のことを書いたら、

後で、色々な旅にまつわる記事や会話と出会うことになった。

どうやら、僕の知らないところで、たくさんのひとが同時に旅のことやら、日常のことやらを考え、そして、表現する日となったようだ。

こういうことは、割と普通に起こるから不思議だよね。

もしかしたら、サンタさんが出発前の準備にきっと大忙しだったから、そのエネルギーが世界中に広がったのでは?

とか、想像を膨らませつつ24日を迎えた。

子供のころから、この日は、本当にウキウキしていた。その影響もあってか今もウキウキするものだ。

今日が輝く1日となりますように。いや、もうなってるか。

今日も見てくださり、ありがとうございます。サンタさんがんばって!!
                                              小林 克
          

2016年12月25日(日)


・サンタはきっと、いると思う。

波長が合う。

ということは、比較的よく経験できることだと思う。

テンションが高い人が話しかけてきたらだいたいそれに合わせて少しこちらのテンションも高くなる。

相手が敬語で話しかけてきたら、なんだかこっちも敬語で話してしまう。

あるいは、この人と気が合うとかでもいいだろう。

人によっては、相手が悲しい時、苦しい時、自分にその想いを重ねて、我が事のように悲しくなる人もいる。

こういうことは、遠く離れた場合でも起こっているのではないかと思う。

例えば、嬉しい想いに駆られた時。

世界のどこかでも同じように嬉しいできごとが起こっているかもしれない。

自分が悲しい時には、世界で今も起こる悲しいできごとの一部と形を変えてはいるが、波長が合った瞬間かもしれない。

波長が合うということは、拡大して解釈するともしらかしたら、そういうことなのかもしれない。

サンタの波長ってどんなものだろうか。

きっと、優しい気持ちなんじゃないかな。

子供を思う気持ち。すべての子供に平等に。

僕たちが昨日、あるいは、今日そんな気持ちでいたなら、それはサンタの波長と重なった日だったのかもしれない。

その時、確実にサンタはいたのだ。

僕たちの中に。

誰かがこんなことを言ってた気がする。

クリスマスはキリストの生誕を祝う日ではないのだと。

クリスマスは、キリストの愛を受けた人間が、少しだけ自分のまわりの人たちに、優しくする日なんだと。

今日という日が優しさで包まれますように。

今日も見てくださり、ありがとうございます。メリークリスマス!

                                              小林 克
          

2016年12月26日(月)


・切り替わり

クリスマスから一転。

電車の広告は、初詣でや初夢宝くじに変わっている。

この切り替えの早さには、

少し驚くとともに、ちょっと面白ささえ感じてしまうのだが、

自分の中にある意識を見ても

さぁ年末へ向けて〜

と切り替わっているのを感じる。

これが、日本のクリスマスなのだろう。

商業的とか、そういうことは置いておいて、

これくらいすっぱりとそのほかの物事も切り替えたりできたらいいのになぁと思うことがある。

例えば、断捨離とか。

例えば、仕事と仕事の継ぎ目とか。

例えば、仕事とプライベートとか。

この切り替えというのは、やっぱり習慣なんだと学んだ。

僕からしてみたら、クリスマスはきっと生まれてからずっと25日までの出来事だったのだろうし、

それをずっとすごしてきたのだから、脳は切り替えるに十分なほどのデータを持っているんだろう。

朝起きることもそうだろうし、

気づいたらすぐにするということも、そうだろうし、

繰り返しし続けることで、脳の中でスイッチができ始める。

電車の広告に、意外と地道な道のりを学んだ。

今日も見てくださり、ありがとうございます。年の終わりが近づき、より一層丁寧な仕事を心がけたい。
                                              小林 克
          

2016年12月27日(火)


・物体のその先に

嬉しい報告が続いている。

これまでにない良い調子を感じた。

オステオパシーを受けてから去年はできなかったことが今年はできた。

少しずつ未来に光が見えてきた。

本当にこういう言葉は僕にとって最高のご褒美である。

なぜ他にはない効果があるのか?

ただオステオパシーをしているわけではないからだと思っている。

スティルがそうしたように

サザーランドがそうしたように

フルフォードがそうしたように。

彼らに共通しているのは、人を一から考え直したことにある。

病の原因を自ら考えたことにある。

スティルは人を機械に例え、

サザーランドは人を海に浮かぶ家に例え、

フルフォードは物質のその先を探求した。

その過程が、その熱量が彼らの手に宿っていたのだと思っている。

同じことを理解するのも、教えてもらってたどり着くのと、自らたどり着くのはわけが違う。

彼らがみつけたものは、医療の本質であり、医療の本流と言える考えだった。

それを証明し、共に手を取り合って進むのが僕の役割だと思っている。

今日も見てくださり、ありがとうございます。全ての大きな理論はもう出揃っている。今は細かく、焦点をあててみているだけ。

                                              小林 克
          

2016年12月28日(水)


・自分の体のことは自分が一番わかっていると、今言えるだろうか?

昔はよく聞いた。

「自分の体は自分が一番よくわかっている。」

今、そう言える人は少なくなっているのでは、と感じる。

世の中健康ブームだ。

納豆がいいとなったら、スーパーからは納豆が消え、グルコサミンのサプリメントは飛ぶように売れる。

ネットの力もあって、これほどまでに健康に関する知識が氾濫している時代もこれまでになかったと思う。

知識がつけば、つくほどどうやら自分の感覚は信じなくなってきているようだ。

ここが痛いとなれば、すぐにネットが開かれる。もしも、それで解決すれば、また調子が狂うまで遊びに仕事に没頭する。調子が悪いなと気づくのは症状が出たあとだ。

当院の活動は、まさに時代の流れとは全く別のものだと思う。

「自分が気持ちいいと思う呼吸をしてください。」

「自分が楽だと思う立つ位置を感じてください。」

感覚というものだけでいったら、悪い状態に気づく人はむしろ多くなっていると思う。

でも、それは感覚が良いわけではない。

大切なのは、良い時の感覚だ。

「自分の体が今、いい感じだ。」

こう思える感覚を感じれているか。これが健康には大事なのである。

良い状態を知ってるから、初めて悪い状態に傾く前に休むことができる。

不健康とは、自分が健康である時のことを忘れることから始まるとも言えると思う。

自分が良い時の感覚を知るのは誰にでもできる。あるいは、誰にでも経験があるものだ。

ヨガをしたあと、シャバーサナの時に感じる爽快感。

体操でも、かまわない。

一番身近なのは、仲間うちで楽しく駆け回ったあと、芝生で寝転んだ時に感じる感覚だ。

子供の時を思い出して欲しい。思い切り外で遊んで、笑って、そういった時感じていた体の感覚を。

すーっと体が通る、少しサワサワとして、ジンジンとして、曇った感じるのない、そんな感覚を。

オステオパシーはそんな感覚を思い出してもらう最良の一つでもある。

終わったあとの感覚をよく感じておいて欲しい。

きっとそれは、あなたの役にたつはずだ。

今日も見てくださり、ありがとうございます。言葉で言っても伝わらないんです。こういうのは。

                                              小林 克
          

2016年12月29日(木)


・自分が人生の主役を生きる。自分がヒーローになること。

人生とは、主観的なものだ。

昔、手塚治虫の漫画で、自分以外は全て作り物で、生きているのは自分だけだった。という内容のものを見たことがある。その漫画の映像はいたく自分にとって、印象深く今も頭にこびりついている思い出の一つだ。

その時は何も思わなかったが、いまならその重要性はなんとなくわかる気がする。

僕たちが生きる世界も似ている部分が確かにある。

ある意味自分一人の人生を皆生きているといえる。そんな中で、色々な人に影響を受けながら生きている。

これは非常に大切なことで、

自分の人生の主人公はあくまで自分であり、自分でなければならないということだ。

自分が人生の主人公にならなければならないのである。

他人の脇役みたいなのでは、いられないのだ。

脇役のように見える役にしても、主人公として演じなければならないのである。

実はこれが健康にも関係するからやっかいなのだ。

自分のエネルギーは出し切らないとダメなのだ。

出し切るからまた入ってくるのである。呼吸と同じように。

どっかでつっかえててもそれは押し流されるまでは、全部出しきれてるわけではないのだ。

つっかかったエネルギーは、余計なことに使われる。

出し切るためには、人生の目的が必要である。

何もなく、自分を出し切れる人を僕は見たことない。

そういう目的をいろんなものにつっかかりながら、とりあえず決める最初の時が思春期と言われるものだ。

そこから自分の人生を生き始めるのである。

今日も見てくださり、ありがとうございます。そこから選択の人生がはじまる。その選択を繰り返しながら目的もまた、本当の目的に洗練されていく。
                                              小林 克
          

2016年12月30日(金)


・「あきらめることは美しい」

諦めずに何かに取り組むことが美徳と思っていた時がある。

若さだろうか。メディアの影響だろうか。

あきらめたら、それは逃げ。負け。真剣に取り組んでいない。

と、言えるだろうか。

大人になって、青年だった時よりも少しだけ物事を知るようになって

あきらめることで、人生が進むこともあることを知った。

それは、進める道は、一つではないということだ。

最短のルートに固執する必要はない。

それは、終着点は、一つではないということだ。

人生の初期に決めたものが自分の終着点となるべきかは、わからない。

でも、一つ確かだなと思うのは、

あきらめずに取り組んできたからこそ、

あきらめるということが、成長につながったとも言えるということだ。

あきらめないことは向き合うこと

あきらめることは認めること

きっと僕はどちらも美しいと思う。

今日もみてくださり、ありがとうございます。逃げるは恥だが役に立つ、というのも同じ意味かな?

                                              小林 克
          

2016年12月31日(土)


・大晦日

31日だ。

普通にやっていたら、一年を振り返ることほとんどないので、ちょっと振り返ってみた。

たぶん今年は自分の人生が大きく変わった一年だったと思う。

院の移転があったり、これまでずっと、探究していたことの一つの区切りを感じることができたり、素晴らしい出会いがあったり、今またこうやって新しく表現をはじめていることもそうだろう。

もともと、ブログは作っていた。でも、その時には、きっと表現に至らなかったのだろう。探究への欲求の方が強く、だんだんと離れていった。

思えば、その時から何かがはじまったのだと思う。そして、それは今年終わり、また新しいものがはじまったのだと思う。

今度は表現ありきの探究だ。

一年の区切りとはいいものだなぁ。

こうやって、節目、節目をつくるから人のいとなみは持続力を持って続いていくのではないかなぁと思う。

今日と明日で何かが変わっているわけではないのだけれど、今日までの自分をまとめ、新しくまた決意を持って進むのは、推進力になると思う。

そんなことで、本年も本当にありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願い致します。

今日もみてくださり、ありがとうございます。現在朝の5時。変わらず体操をはじめている。

                                              小林 克